蓮如上人御崇敬ー能登第一組押水総同行会ー

24日~28日の春勧化も過ぎ行き、3月に入った。
1日、押水・坪山願生寺さんを会所に「御崇敬(ごそっきょう)」が営まれる。
少し早めに、会所へ向かった。
一組エリアへ入ると至るところにポスターが貼ってある。

このポスターを見て、
「御崇敬」とは?
「同行」とは?
を訪ねるとしたら、
それだけで、与えられた法話時間(40分+40分)を消化してしまいそうである。
はじめてポスターを見たので、このことを考えなくてよかった。
歓喜光院(乗如上人)御崇敬の流れの中に、明治30年頃に同行衆が始めたのがこの御崇敬。
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上田地内
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宿(しゅく)地内、民家
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聴聞においでた方々は、まず蓮如上人御影に、お礼を遂げて、座席に着く。
この御影は、嘉永年間に、同行衆がお受けしたもの。

なぜ黒衣なのか?
一緒にお参りする僧たちもすべて黒衣なのはどうしてか?
から、お話しに入った。

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大勢の参拝。

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1組には、20数カ寺の真宗寺院がある。
よほどのことがない限り、門徒主催のこの行事にお参りすることになっており、この日は20数名、ほとんどがお参りになっておられた(「御書立(おかきたて)」には、お寺の行事に差し障りのないように勤めることと記されている。ということは全住職が御同朋としてお参りできる日に行う、ということでもある)。
一組は能登教区の一番南、現在加賀地区に含まれている高松の一部、越中(高岡)と境を接しており、宝達山系一帯を占めるエリアである。
古い伝承を有するところであるが、いわゆる知識・物知りである歴史・民俗に属する「存知」の方へ行きそうな話は、一旦入り込むと次から次になって抜け出せなくなるから、
がまんして、
讃題に取り上げた「御文」5帖目第1通の「たすけたまえ」、
すなわち「信知」を中心にお話ししたつもりだった。が、
司会の方は「存知」でまとめられようとしておられた。
法話は、まとめたら7割がた生命を失う。
というか、人の話をまとめるほどの人智を持つ存在などいやしないことを知るのが、法座なのである。
合掌して、念仏しながら、それぞれがそれぞれのに「うなづき」、次の暖め・お育て、あるいは何かの拍子に「こころ」のどこかからの呼び声につながることができるような、時をもたなければならない…。
今まで、それを「恩徳讃」を斉唱することで、深い場が生まれていたのいたのだが、
この場で恩徳讃は一番最後に設定されていることを知ったため、つなぎの時をもてなかった。
あとで念仏もうしながら、締めればよかった、と思ったが、あくまであとでの思い。
これも思い通りにならない「苦」の世界である。

この御崇敬は、まず、

送り説教(昨年度の宿寺住職)
正信偈唱和
御消息拝読
法話
迎え説教(来年度会所住職)
恩徳讃斉唱

での流れ。
蓮如上人御崇敬には「御書立」がない。
「御書立」に、門徒(同行)主催の行事たる由縁、僧侶も本来の同行として御崇敬する旨が記されている。
それで、手本にしている歓喜光院御崇敬では、何度も何度も、「御書立」拝読がある。
「御書立」に何が書いてあるのかにも、触れることが出来なかった。

お参りにおいでた方の中には、珠洲からお嫁に行った方、
初任の羽咋工業で、いろいろ教えてくれた同僚の奥さんが来ておいでになり、
工業の校歌、作詞者・佐藤春夫法然上人にちょっと触れたところ、手を振って喜んでおられた卒業生らしき姿もあった。

夜7時から、用事があって4時過ぎに法話を終えると同時にお寺と別れ、帰途についた。

折角、いろんな方と会え、お話し出来そうな場があったのに、帰らなくてはならない。
これも「苦」だ。

と、書いてみて、
真宗の生活者でない人は、文中に用いている言葉のどの程度理解できるだろうか?、と考えたとき、
「海の内外の隔てなく」(真宗宗歌3番)の願いに対して、
厳然たる「内」社会に居ることを思った…。

この宿題を抱え、
今度は志賀町で、来たる4日、「御崇敬」についてだけ、お話しする。

このことは書いておかなければならない。
どうして、このような機会が与えられたかというと、
会所(宿寺)の住職が従兄弟で、講師推薦権のかなりの部分が、宿寺にあったためであろう。
おかげさまで、ずいぶん、いろんなことを思い出し、また、学ばせていただいた。