新聞記事 「北國文化」蓮如が歩いた北陸の地(平成8年・1996・3月17日)

北國新聞 平成8年(1996)3月17日「北國文化」欄
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【タイトル】宗教文化の宝庫道 蓮如が歩いた北陸の地/今に息づく名(みよう)号(ごう)、伝承

 文安六年(一四四九年)の春、三十五歳の蓮如は、父存如(ぞんによ)と共に北陸の地を訪ねた。それより二百四十二年前、承元(じようげん)の法難によって越後に流された親鸞と同じ歳を期しての旅であった。
親鷺の信心は、北陸の風土と人々との中で確固としたものとなり、関東に移ってから「教(きよう)行(ぎよう)信(しん)証(しよう)」の大著を生む。
 蓮如は、六歳で生母と別れ、十五歳で信心獲得(ぎやくとく)したといわれている。別れ際に、母が託した真宗再興、その真宗の原点とでもいうべき北陸に足を踏み入れた時、蓮如は、どのような感慨を胸に抱いたであろうか。

天災、戦火の時代

 蓮如の生きた時代は、天災・疫病・一揆(き)・戦火が続き、人々は疲労の極にあった。蓮如は、これらの人々を友と呼び、「御(お)文(ふみ)(御(ご)文(ぶん)章(しよう))」やだれにでも分かる言葉で教えを説いた。その教えは、闇(やみ)夜に立ちすくむことしかできない人々を照らす光明となり、急速に広まっていった。その勢いが激しければ激しいほど、旧仏教との間の摩擦も強くなる。争いを避け、蓮如は深い印象の残る北陸を目指した。文明三年(一四七一年)春のことである。同年七月には吉崎に御坊を建立。四年後吉崎を去るまでの間、「一人でも信取る人」を求め、人在るところ隈(くま)なく足を運んだ。「御わらじの緒、くい入り」(『蓮如上人御一代記聞書』)、生涯、そのあとが消えないほどであったという。その「蓮如道」とでもいうべき道筋に、多くの伝承や、名(みよう)号(ごう)をはじめとする数々の遺品が伝わっている。
 伝蓮如筆の名号は数多いが、虎(とら)斑(ふ)(山中町下谷)、木橦(むくげ)(辰口町三ツ屋)、鷹の羽(美川町平加)、藤蔓(ふじつる)(金沢市四十万)、川(かわ)越(ごえ)(同蚊爪・卯辰)、アワビ貝(同無量寺)、カワウソ・つぶらご(同二俣)、石刷り(同砂子坂)などの、いわれを伴った名号が伝わっている。筆代わ
りになるものなら、何を用いてでも名号を書き、帰(き)依(え)すべき本尊を伝えたい、という蓮如の意志が見て取れるであろう。

場所を選ばず説く

 加賀市山田、同上河崎、小松市鳥越村境の光(みつ)谷(たに)越(ごえ)、辰口町三ツ屋、松任市安吉、富山県城端町などに残る多くの蓮如「腰掛け石」伝承には、場所を選ばず法を説いた蓮如の姿がある。
 この他、足跡、杖(つえ)跡石(金沢市蓮如)や盤持ち石(同才田)などの石、蓮如によって涌(わ)き出したといわれる、およそ七カ所の清水、蓮如が植えたという松や梅、イチョウなども、およそ十七カ所に伝わっている。
 これらは、吉崎を拠点として各地に出向いた折の話であったり、四十万や二俣に滞在し、砂子坂・福光・城端・井波へ向かう途中の出来事として語られる。これらの道が「蓮如道」の大通りであるならば、ほとんど人が通らなくなってしまった道にも、近所の人々が「蓮如道」と呼ぶ道が残っている。一つは、金沢市湯涌から横谷峠を越え、五箇山ブナオ峠、桂(廃村)、飛騨加須良へと抜けるルートの奥道、もう一つは、氷見市一刎(ひとはね)から能登境の指ケ峰に至る山道である。指ケ峰から能登を見渡した蓮如は、後日必ず仏法が興隆するだろうと言い残し、引き返したという話も伝えられている。
 この二本の「蓮如道}には、こんな所まで、蓮如さんは…という敬慕の念が、変わらぬ自然に抱えられて在る。一方の大通りには、名号や植物以外にも、多くの蓮如木像、名産庭園・芸能におよぶ蓮如の足跡が残っている。
 京都と吉崎を結ぶ蓮如道を含め、これらの「蓮如道」は、法が息づき、大いなる宗教文化の宝庫道ともなっているのである.、今、「蓮如道」のいくつかは、金沢市富山県福光町、さらには福井県金津町吉崎、富山県井波町を結ぶ自治体交流の新たな象徴の道として注目されている。
(にしやま・さとし=真宗大.谷派西勝寺住職、珠洲市文化財保護審議委員、珠洲市在住)