山中毅選手

茶の間にあった5級スーパー?とか言ったラジオの前で、それこそ手に汗握って父と山中選手を応援した(当然他の家族もいたのだろうが、ラジオの直し役だった父の印象が強い)。400メートル、1500メートル、どうしてもローズに勝てなかった。
メルボルン大会の時の思い出で、父が36歳、私が9歳頃の話である。
新聞によると、この10日、78歳で逝去なさったという。

新聞写真とは別に、編集した→『写真アルバム 能登半島の昭和』に、山中選手関係の写真があったことを思いだした。
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写真集p101
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昭和35年のローマ・オリンピックに競泳自由形山中毅、平泳ぎの大崎剛彦、バタフライの井筒賢造が出場し、好成績をあげた。10月16日、3選手の凱旋に沸く輪島駅前の様子。

※左3分の1中央、塔と幟の間に
白い服を着た3選手の姿が見える。本に用いられたのは違う角度からの写真だった。

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写真集p120
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昭和31年メルボルン・オリンピックに出場した山中毅選手は自由形競泳で2個の銀メダルを獲得した。この活躍を契機に、海の魚を放していた鴨浦水族館は塩水プールに造り替えられた。(輪島市・昭和30年代)

※鴨浦で何度か泳いだ。このプールでも泳いだ記憶がある。山中がこのプールで練習したと聞いたのは伝説なんだろうが、海があるのにわざわざ、狭い人工のところで泳がなくても、というのが子どもの頃の感覚だった。
ところで、プールまわりにおいでる女性たちは?
写真提供者の説明文には、洋裁学校の生徒さんたちとある。

この写真集の写真は、一般の家にある写真から選んだだけに、
あまり目に触れることがない、一人ひとりの物語を語る貴重なものが多い。