「思考の基点を何に求めるか」『若竹』ー昭和48年(1973)

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羽咋工業高等学校生徒会機関誌『若竹』
この号、8号は、高校創立10周年記念誌も兼ねていた。

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校歌。
何の気なしに見ていて、達筆な人が校歌を書いているとばかりに思っていたのが、
作詞者・佐藤春夫氏の直筆だった。
母校の飯田高校に次いで知ったのが初任校・羽咋工業で、その高校の校歌作詞者が佐藤春夫と聞いたとき、工業高校の勢い・力を知らされる思いだった。作曲は信時潔
そのことは充分に知っていながら、詩人の字とまでは思い至らずにいた。

佐藤春夫

佐藤春夫といえば、まず「少年の日」だろう。

1 野ゆき山ゆき 海邊ゆき
  眞ひるの丘べ 花を敷き
  つぶら瞳の 君ゆゑに
  うれひは青し 空よりも。
2 影おほき 林をたどり
  夢ふかき み瞳を戀ひ
  あたたかき 眞晝の丘べ
  花を敷き、あはれ若き日。
3 君が瞳は つぶらにて
  君が心は 知りがたし。
  君をはなれて 唯ひとり
  月夜の海に 石を投ぐ。
4 君は夜な夜な 毛糸編む
  銀の編み棒に 編む糸は
  かぐろなる糸 あかき糸
  そのラムプ敷き 誰(た)がものぞ。

この詩人が、
 羽咋工業校歌に

1 古の地に 新しき
  文化を産むと 若人の
  志見よ 我らみな
  國の内外(うちと)に 雄飛せん
    自律の児らの 睦じく
    楽し我らが 学窓は

…と詠んだのだ。
しかも、どちらも和讃(親鸞聖人作)と同じく、今様形式を基調にしている。

羽咋工高新聞 

創刊号 19621010

佐藤先生能登路へ

 我校の校歌作詞のため七月二日佐藤春夫先生ははるばると能登路をおとずれになつた。羽工の新校舎の敷地に立たれ、奥能登を精力的にまわられて小雨まじりの暗い天候の下にではあったが自然の美しさと、古きものを残して営々と続けられ来た人間社会の力強さを心に宿されて帰られたようである。

能登旅行の歌

 佐藤春夫先生能登旅行句

島影は大古に似たり夏がすみ

北陸はあぢさい多く海黒し

島みえてすずしき道のつづくかな

ねむさきて山路うれしくなりにける

白湾は青し つつじは花紅く

雪の下流人の家に栄えける

七浦を七つ曲るや春の風

青あらし鱗の如き家根つづく

波間なるそよかぜゆかしさくら貝

くもり日の小舟危くぬなは採る

人も斧も入らずの杜の五月雨

古のひとなる大人のここをしも

ふるさととしてみ霊しづまる

佐藤先生の日程
七月二日 白鳥号にて来県、和倉温泉で一泊
七月三日 和倉~穴水~宇出津~小木~飯田~狼煙~時国ー曾々木(泊)
七月四日 輪島~門前~泣砂~富来~一ノ宮(気多大社にて折口氏の墓におまいりなさる)(羽咋泊)
七月五日 午前羽咋市視察、午後小学校にて講演(旅人の話)
七月六日 白鳥号にて帰京


佐藤春夫は、「田園の憂鬱」、詩が一般の理解だろうが、『観無量寿経』(法藏館、昭和53)の佐藤春夫もいる。
最初、同一人物とは思えなかった。
最近手に入れた法然上人別伝「掬水譚(きくすいものがたり)」の帯には
法然上人に心酔し、『極楽から来た』など。上人を題材にした小説やエッセイを多く発表した文豪・佐藤春夫が、上人の生涯を独自の感性で描き出した名作。短編『上人遠流』を併載。」とあり、法然上人と深く関わっていたことが分かる。
佐藤春夫氏に校歌を依頼したのは、第一人者に依頼したいとの思いで、佐藤氏の秘書を介して打診したところ、羽咋には折口信夫の墓があると聞いているので、墓参を兼ねて能登を巡り、その折に学校を訪ねるとの返事を得、校舎建設地に寄ったときに「工藝台(たくみがおか)と名づけては如何か 春夫」(『工藝台参十年』P13)と提言しておられる。
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観無量寿経佐藤春夫石田充
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法然上人別伝 掬水譚』

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さらに、生徒会の顧問に名を連ねていたとは、思っても見なかった。
東北へ自転車旅行した生徒の文を、ここはカット、とやった記憶がある。
あれは、顧問兼国語教師ということで、あらかじめ読み、ばっさり切ったのだと今ごろ納得した。
私の文の前に、中西先生の史祉紹介「浦野事件と久江村道閑」が載る。
加賀藩に藩領と天領(幕府領)が混在するきっかけとなった検知に反対して処刑された十村道閑の悲劇をこの記事で初めて知った。
抜き刷りというものを初めて戴いたのも、先生からだったと記憶している。
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なお、
編集委員の生徒のうち、二人とは今も賀状交換を続けている。44年目だ。

ところで、
国語の教師の中には、生徒の見本になるような文を書かなくてはならない、と勝手に規制して文を書こうとしない人が多かった。
私は、将来上手くなればいいから、とジャンジャン書く方だった。
教員になって初めて書いた文が次の文。
顧問の中西直治先生に勧められて書いた。

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思考の基点を何に求めるか   西山郷史

 視界が開けてきた時、まさに水平線に沈もうとしている太陽が目に飛び込んできた。川面は揺れ、視野にはいるものは赤かった。私の体も赤く染められているような妙な気持になる。瀬田の唐橋で見る夕陽以上だぞと思った。視界の西側に続く松並こそ赤いセロファンを通した緑だったが、そんなものは吹き飛ばしてしまって少しも気にならぬ程、羽咋大橋から見る夕焼けは鮮烈であった。
 今までだったら、ためらわずどこかで寝転がり沈むのを待ったであろう。それが出来ぬ。一張羅のスーツは尊とすぎる。たとえ坐りこんでも、スーツとネクタイ姿が物思いに耽っている姿は見る者に怪訝な印象を与える。ただ夕陽に見とれている男が変人になってしまう。スーツは童心を拒む不思議な属性を持っているようだ。着るものによって人間性が、ささやかな楽しみが、規制されてたまるものか。そう思いながらも、好奇の目と比較する時、楽しみのささやかさが打ち消された。私はしばらくして帰途についた。あの時の印象は今も鮮かに脳裏に蘇る。その後、千里浜へ二、三度夕陽を見に出かけはしたが、羽咋の夕陽が心に確かな位置をしめるまでには到っていない。

 学生服は重宝なものである。すりきれてしまったのをずっと着ていたが、見苦しいだろうな、などと思ったことはなかった。むしろ、ぼろぼろになった辞書によせる愛着に似通った、誇りさえ感じつづけていた。芝生に寝転がり、南アルプス、富士を見やり、故郷とはどこか違った太平洋側の大気の中に夢を見ていた日々。自然との対話が積み重なりそこの風土に同化してしまっている自分に気づく頃、服はよくほころびるようになっていた。
 人間の成長が順調にいっていなくても時が訪れば象徴と別れねばならない。私の学生服に対する考えも社会の変動と共に変わって、京都へ移ったのを機に決別した。およそ服装に関するセンスなんてものは持ち合わせていない。寒くない程度に、動きやすければ、それでいいと思っていた。冬、靴下をはかずに通したのも冷たさを足に集中させておけば、他の部分の寒さが緩和される。靴下など不必要だと変な理屈をつけていた為である。事実、手や顔に寒さが集中されるよりはずっと寒風をしのぎやすかった。
 大学院生は全員スーツを着ていた。博物館へ行くにも、史跡踏査、調査へいくにもスーツを着ていた。話し合って見ると院生だからという答えが返ってくる。学部の学生とは違うという。おかしなエリート意識である。○年○月○日、学部的服装から院生的服装に変わる、と同時に実力も院生らしく、一定の水準に達した、その象徴としてのスーツ、とどうもそんな具合であった。キリストや釈迦は偉大な思想家と人々が一目見て思うような格好をしていたか、彼等の偉大さは苦悩を思想にまで昇華し得たところにあったのだし、その生きていく姿勢の虚飾のない真摯さによるのである。外的要因は一かけらも交ってはいない。もし院生というものが、学部生に比べて何か違うものを持ち得るとするなら、人より多く勉強させてもらうことのできる我が身に責任を持つことである。自分も含めた社会の一人一人が、幸福になる為に、一歩でも近づける学問を、何等かの理由で勉強する暇のない人に代わって責任持ってやることである。

 芝生から、史跡、博物館と目的・場所は変わったが相も変わらず、関心をひくものがあると、寝転ばぬまでも、一時間、二時間と坐りこむのだった。人の少ない平日に展覧会場へ行っては坐ったもので、尻が冷えるといって馬鹿でかい頭陀袋に座布団を入れて持ち歩いたこともあった。
 西山へ陽が沈む頃になるとゲタをカランコロンいわせながら、下宿の近くにあった聖護院の横を通り、金戒光明寺の山門をくぐりぬけ、山の斜面を埋め尽している墓の間をぬって、京都の街が一望に見おろせる三重塔の前にすわる。付近は朱に包まれる。朱赤の鮮やかな空に対し、見下す街並は灰色がかかった沈んだ色をしている。
ー大きな池に赤い油絵の具が放り込まれた。ビルは池底の藻。ー
近景へ目をやる。鐘楼・墓・卒塔婆・夕焼け・山。それは幼い日の思い出ー夕焼け小焼けを歌った日々に想いを巡らした景色。沈みきった街が生きてくる。ポッ、ポッとネオンが灯る。仕掛げ花火でも見るような赤、青の光が拡がっていくのを懸命に追っている間に、空は現代の色にその主役を譲る。既に数分前の朱は思いもよらず、周りも闇に閉ざされようとしている。悠大な自然の流れ。古い歴史を秘めた都、そしてセカセカ動くネオン。歴史の縮図を見、太古から一足飛びに現代に放り込まれたようなとまどい。闇と化した墓地、下駄の音をゆっくり響かせながら下る。
とうとう三年間、ジーパンとセーターで過してしまった。学生服にかわって充分、自然に溶けこませる役割を果してくれたようだ。

高校時代に自然の中で物を考える習性が身についたもののようである。学校内でもよく話し合ったが、場所を変え、気分を変えて話し合う魅力のとりこになっていた私達は、日曜ごとにどこかへ出かけた。土曜日は他クラスとソフトの定期試合を行なっており、今の受験生に比べると、のんびりしていたような気もするが、当時はそれでも真剣だった。ソフトは運動不足にならぬよう、日曜ごとのハイキングは気分転換、あとはひたすら勉強しようということだった。併し、ソフトに負けるのは癪だからといって練習する。ハイキングが終ると次の候補地選択でつい話がそちらへ行ってしまう。もう着ないようなシャツを集めて染物屋さんで染めてもらい、ソフトのユニホームにしていたくらいだから熱の入れようも並々ならぬものであった。放課後教室で勉強していたのだが、50分ごとに休み時間をとる。ひたすら喋り又一斉に机に向かうということに決め、これは徹底させた。バスケットをやる日も決めていたようである。そのうちにこれだけでは物足りないと、私達のグループ(20数名)だけが知っている、秘密の場所を定め、思い出の場所にしようということになった。減多に人の通らない、学校から歩いて15分程の距離にある大きなため池(カメンタン)をその場所と決め、特に悩みがある人間は必ずそこへ行き誰かと相談することとした。それからは連日、参考書をかかえてゾロゾロ移動するのだが、机がわりになるものがなく、いつか元の生活に戻った。それでも事あるごとに、カメンタンは使われ、クラスの故郷的役割を果していた。そこがら見る夕陽が綺麗だった。私も高三の11月、先生に叱られ、池に飛び込み頭を冷やそうかと思いながら、星が出るまで転がっていたことがあった。さすがに暗くなると、薄気味悪く、叱られたどころじゃないと、一目散に逃げ帰った。
 特に仲良がったグループとキャンプをすることがあった。岩の上に転がって星を挑めたまま、ほとんど何も話さず朝まで起きていたこともある。それぞれ何か考えることがあって星空と対話していたものであるが、不思議と自然の中に放りこんでおけばいいような者ばがり集まっていた。集まっていたというより、二・三のカリスマ的存在が全体をそういう方向に動かしていったものであろう。学校の帰り途に先生の家が見えるところがある。いつも6時頃七・八人ずつで帰るのだが、聞こえるわけもないのに、一斉に「先生さようなら!」と、大きな声を張りあげるのを習慣としていた高佼三年時代であった。
 この頃に育てられた自然に対する愛着が奇妙な自信となって姿をあらわすことがあった。都会の人間に対してコンプレックスを持つかなという不安も、奥能登の自然にはぐくまれてきたんだという思いで払拭され、相対的思考に疑問を抱く時、格好の対話相手をスムースに提供してくれもした。高校卒業後、雪が降ったといってその時のグループ、七人が集まった。雪の一番美しい所はどういう形で見るのがいいか、しばらく言い合った後、バスに乗り、見付島海岸へ行った。ござを一枚用意し、僅かに雪の積った浜に腰をおろして、コップ酒を飲んだ。雪は降り続き、寒さは絶え難かったが、雪を最大限に味わっているとの満たされた思いは、いつか放歌高吟となっていった。雪を見るにも最善を尽したい。この姿勢はあらゆる所で、真なるものを求めていく、見通す姿勢につながるのではないか。小さなものでも見逃さず虚飾を透視し得る目を養わねばならない。

 この前、ぶらっと知人宅へ出かけた。途中二、三の社が目にとまった。一つには天満宮と書かれてあった。祭りの時ぐらいしか、思い出されないのだろう。静寂を通りこして、ただ寂しかった。心がなかった。
 オリンピックについては、何とか真理(まり)については、ベトナムについては、マスコミの氾濫によって、この類の話は津々浦々で聞くことが出来る。それでは自分自身について、人間観、世界観、自分にとっての原点はー心もとなくなってくる。
 あらゆる情報は中央から地方へと、文化、思想は中央に於いて創造され、あっという間に地方を巻き込む。対等な関係は存在せず先進国中央と後進国地方があるだけである。
 この関係が続く限り、何時15年戦争に突入した際の心理状態にそろって落ち込むかわからない。兄弟の為、土地の為・恋人、妻の為にという奇妙な論理のすりかえに気づかぬようになるかわからない。
 一億総白痴化という言葉が耳にされるようになって久しいが、自分が白痴だと思っている人はいないであろう。私なんかも思っていない。全ての人が私は白痴化されていないと思っているなら一億総利口かというとそうでもない。相変らず総白痴化、総白痴化と叫ばれ続けているし、その原因とされているテレビに顔を出して言うのがいるから始末におえない。彼がなさなければならないことは、テレビが悪いのだといって、カメラでもけとばし、放映されることを拒みつづけることであり、そこまで出来ねば、自分は違うんだという態度を捨て白痴になったことを歎き悲しまねばならない。まずなさねばならないことを置いて、人のせいにしてしまう悪しき見本を見せつけられている日々を歎く。自分の内への問いかけが欠落しているものの一つである。
 大きな流れの中で、個々の復権を克ち取る為には、一人一人の庶民史を歴史の舞台に引きあげること、ーそんな思いが胸をかすめる。それは確かに実存の重みを知らしめてくれるに違いない。何の気なしに見すごしているこの小さな社からいくつかの郷土的な話をすすめてみよう。

 御所が焼けた。その直後に虫くいの歌があらわれ「つくるともまたもやけなむすがはらやむねのいたまのあはねかぎりは」と判読されたという。今でこそ天満宮(菅原神社)は学問の神として受験生や、教育ママ達の絶大な信仰を得ているが、もともとは善神ではなかった。中央貴族にとっては崇りまくる恐るべき悪霊だったのである。虫くいの歌は建てかえたところでまた落雷となり焼いてみせるとの宣言歌である。このような反権力的な神は時として圧政に苦しむ民衆を救いに、人間の形に身を変え登場してくることがある。天慶の乱として名高い解放事件が関東農民層の支持を得ることが出来たのも、平将門という武将より左大臣正二位菅原朝臣霊魂、すなわち天皇の上に位する天神の御霊(怨霊)であったからに他ならない。戦国期の武将北条早雲等もその典型である。とにもかくにも霊とは恐ろしいものであった。一つの民族意識の基層を霊魂が支配したといっても過言ではない。肖像画の登場が遅れたのも、生霊がとりつく対象になることを恐れての故だといわれている。
 この世を仮の世仮住い、人間と別れを告げた出家という身にしておいて暴れまわった武将も多くいる。この世のものとも、あの世のものともつかぬ形、一種のひらきなおった状態で果敢な戦闘に明け暮れした信玄や謙信がその代表である。彼等が入道したのも伊達や粋狂ではなく、人間界と冥界の境にある身を積極的に意図してのことであった。
 普通、神は願いごとを叶えてくれる善神とのように思われているが、人格を祀った神々は崇るから鎮めるというのが、本来の姿であった。天神信仰はもともと天の神、雷神に対する信仰だったのが、道真の左遷後、落雷による火事が相次ぎ、いつか道真の怨霊と結びつけられた。神絡の変化は当時の人々が何をおそれ、何を期待していたかを知る、格好のバロメーターとなる。
 原始時代ではあらゆるものに霊が宿りついていると考えられていたが、いつかそれらの中から生活と深い関わりを持っものが淘汰され残っていく。農耕に深い関わりを持つ自然神が主な位置を占めるのはいうまでもない。只開拓が進むころになると蛇やむかでが、人類の敵として行手に立ち塞がってきた。これらが祀られたことはあまり知られていないようだ。蛇は水と関わり、伝えられていく。八岐大蛇(やまたのおろち)に象徴されるごとく、毎年毎年洪水となって田を流してしまう。田の神格と考えられる稲田姫を救うのが、須佐之男命で、この出雲にまつわる神話は高天原族、後の大和朝廷が勝れた治水土木工事力を持って、土着の出雲族支配下に治めた話と愛け取ってよい。気多大社の森の中に祀られている二柱が他でもない須佐之男命と稲田姫である。地形が似ているだけでなく、出雲とよく似た悩みを持つ土地であったのかも知れない。明治時代には、岩窟の中に神像が一体ずつ安置してあったという。
 現在では明らかに古墳石室の残骸と見られる石が雑然と積み重ねられ、宮司さんの話では、祠には筵が一枚ずつひいてあるとのことだった。筵は布団かわりである。滝や巌門、珠洲の恋路など弁財天を祀るところは多いがこれも水との関連が問題視されるものの一つである。五大弁天の一つ、琵琶湖竹生島弁天の頭にはへびがのっかかっている。
 一方むかでについては、芋掘り藤五郎の話から始めるのがよさそうだ。金沢の地名は彼にまつわる伝説から生まれている。藤五郎の兄貴分みたいな名を持つ男に藤原秀郷(俵藤太)という豪の者がいた。大蛇に身を変えた美女(この大蛇の姿をとったのほ琵琶湖に住む竜女だという)の懇顧によって三上山を七巻き半もするむかでを退治したという。このトウゴロウ、トウタいつかタタラと呼ばれるようになる人々は鉱山と深い関係を持っており、タタラ師達は砂鉄を求めて室町頃まて放浪していた。彼等の通り道と考えられる山探い社には、むかでが祀ってあったり、むかでの絵馬がかかっていたりする。鉄鉱石を割ると鉄を含む部分がよくわかるが、そこは「むかで」と呼ばれている。
 古代山岳霊場には、水の源〈水分(みくまり)〉の信仰と共にしばしば鉱山に対する信仰を窺うことが出来る。
 隠国(こもりく)初瀬すなわち死者の往く国と考えられていた長谷に金沢の芋掘り藤五郎に嫁いだ長者の娘譚が伝えられている。長谷と鉱の関係が問題にされたということは寡聞にして知らないが、一考を要する問題であろう。鉱産の保護神から出発したものに、八幡神がある。現在伊勢に次ぐものとして全国に普く分布しているもので、もとは九州の宇佐地方神であった。律令国家にとって銭、武器、大仏等の原材を有する所は隠然たる力を待っていたようで、金の御岳を持つ吉野地方は天皇家と関わる乱ごとに歴史の前面に登場してくる。宇佐も東大寺大仏鋳造の際、手向山八幡・東大寺守護神として勧請されている。中央貴族を震憾せしめた道鏡事件が宇佐八幡の神託により発覚したことも有名な話である。神仏習合の先駆として八幡大菩薩(僧形八幡像)が祀られている。京都守護神として石清水に勧請されたのも、神祇イデオロギーだけでは対決することの出来なくなった中央貴族が、在地豪族層を収斂する手段として習合神を持ってきたとも考えられている。俵藤太はむかで退治の後、将門を征伐する。

 八幡太郎義家といい無敵を誇る武将に八幡信仰は付会され鎌倉武士の信仰を一手に引き受けるかの観を呈する。藤太はむかで退治のあと竜女から送られたという鐘を三井寺に寄進する。三井寺と源氏、八幡神、そして熊野、白山神社との関係とついては謎の部分が多い。併し、これらの神社はいづれも一所に定住しておろぬ、さすらう群れ、(タタラ、比丘尼、放浪芸能人、唱導僧)とのつながりが極めて強い。被差別部落には白山社を祀るところが多く、散所の問題と絡み合わせ、いわれなき差別がいかに不当なものか、この視点から明らかにされる日も近いと思う。.

 京都にいたころ金戒光明寺付近をよく散歩した。墓地に藤田家という墓があって、藤田家の上に朱で俵と彫り込まれていた。鉱山信仰を研究している人と、やはりタワラトウタかな、と話したものである。この金戒光明寺は東山・黒谷にある。以前鴨川は犀の河原とされ、一時、鴨川には五条の大橋しか、かかっていなかった。橋を取り囲むかのように浄土教の寺々が甍を競い、鳥辺野(死霊の国)から、此の世、京の町へ霊が迷いこないよう念仏の声が付近に充ちていた。
 死者の国の境となる犀の河では今でも流れ灌頂を行なっているところがある。孟蘭(うら)盆の時、燈籠流しを習俗として残している所は各地に点在する。このような河川は少なからず犀の河的性格を持っていたようだ。金沢の犀川に明治時代まで人形(ひとがた)流しが行なわれていた。今の寺町寺院群は城壁的色彩の濃いものであるが、あるいはもと、風葬の地であったかも知れぬ、この人形流しが行なわれていたことすら知る人は少ない。実物は見れぬまでも、その人形を形どったものが犀川畔に建てられている。室生犀星の碑である。

 町や村はずれの山の辺を風葬の場と考えながら、川下へ霊を送るというのは矛盾しているじゃないか、と考える諸君もいると思う。実は、死者を葬(はふ)った場所としてほぼ間違いないとされているものに山、川、或いは海、岩穴があり、朝鮮系の神社と目される古い大社には、樹上葬を思わせる神事が伝わっている。そしてこの矛盾は農耕民を考える時、一つの解駅が成り立ち解決される。
 一つの家に、台所の神として秋葉明神がいる。神だながある。仏壇もある。こういう神仏感覚は骨の髄まで一神教になりきってしまっている西洋人には極めて奇怪なこととして目に映るらしい。西洋人的日本人の中にも疑問を持って、論理性の欠如云々と発言される人もいる。私達の曾祖父の頃までは論理の一貫性どころの問題ではなかった。生活基盤か農作物である以上、実る実らないの決定要因は自然の恩恵や稲虫がつかないという所にある。天、にわかにかき曇り大雨でも降り続こうものなら、逆にカンカン照りでも続こうものなら、一揆か餓死しかない。生産に関わりのない為政者達が生き延びても、ぎりぎりの生活、ロベらしをして生きている者にとっては、悔雨期の雨、収穫期に大風のない、天の順調な恵みを約束してくれるものならなんだってすがりつきたかったのである。
 曽我兄弟が田値時の最中、敵討を果たし、後、首をはねられたのは、五月雨の降る頃であった。五郎はゴロウ、御霊となり激しい怨霊は死後も関東一円に充満し、雨を降らさぬこともあった。その兄弟にまつわる話をはなし、怨念を仏力で鎮めて歩いたのが善行寺聖であり、大磯の虎と呼ばれる女性達である。農民達は毎年こういった話を聞き、なにがしの布施を包み、農作物の実り多からんことを願ってきた。大磯の虎の話は穴水付近にも伝えられており、墓まで安置されている。
 加賀の篠原合戦で斎藤実盛が戦死した。サネモリが首をはねられたのは、稲につまずいたためだという話になり、その霊が稲虫となって崇った、という話はまことしやかに全国に喧広されていく。義経伝説は今も能登の各地に伝えられ、珠洲では佐渡に流された日野資朝の敵討ちを行なった資朝の子阿新丸(くまわかまる)の話が伝わっている。中学時代の同級生日野君の家はお菓子屋さんで資朝の子孫だと言い伝えられており、近郷では源氏の菓子といって結構名高い。曽我物語平家物語義経記太平記の原話をもとに唱導僧や比丘尼たちは、地域に応じた話を展開しながら農民の心に深く食い込んでいく。こういった比丘尼の1人に、八百比丘尼、或いは、白比丘尼と呼ばれる女性がいた。齢八百年に達し、源平の合戦も悉くみてきたという。珠洲上戸町に倒杉と呼ばれる古木があり、八百比丘尼が使った杉箸が成長したものと言われている。この比丘尼の杉が曾我兄弟の墓近くににあるというのも面白い。八百比丘尼は地方的な存在であるが、全国に広く伝えられているものに和泉式部小野小町の両グルーブが考えられている。
 現在こそ能登は俗に真宗王国と呼ばれるくらい真宗の教線が入りこんでいるが、行基や、弘法大師八百比丘尼、等と信じられてきた唱導者。無名の語り者達の切り開いた土穣があって始めて、真宗も入ってこれたということを見逃してはならないであろう。
 これら唱導者は荘園制の崩壊に伴う、経済の逼迫に対処すべく、熊野の霊験を説いて歩いた熊野比丘尼で名高い、熊野から生まれた時衆の徒とされるものである。時衆の開祖一遍が佐渡から渡ってきて、伝えた念仏というのが今も宇出津・天徳院に伝えられている。輪島海士町にも同様のものが伝わっているという。
 芸能に深い関係を持つ人々は阿号が使われ、時衆の徒であるとされる。能の観阿、世阿、連歌師の頓阿、絵画の本阿弥等、挙げだすときりがない。著名な人物でなくとも同様の人々が、日本中を回り、伝説、昔話などで残っているものの原形を提供していった時代が確かにあったこと。それを聞いた我々の先祖は、ひたすらそれらに頼らざるを得なかった。今の私達はどれほど当時の貧しい、教養のない人々の精神を克服していると言えるであろうか。知識は確かに増えているけれど、与えられるものをつなぎ合わせるだけだったら、ー不安になる。どれだけ、自分の内面から、今立っている自分の場から思考を成し得ているか。もう一度、美しい山河やそこに生きてきた、私達の先祖のことを考える中で反省してみなければならない問題であろう。(本校国語科担当教諭)