「得度」ー昭和34年(1959)作文

f:id:umiyamabusi:20170213200918j:image
『昭和34年度 はとどけい』石川県小中学校作文コンクール作品
石川県教職員組合文化部編


多分、私が書いたもので、初めて活字になったのは、
中学校一年の時に書いた作文だろう。

この作文に関しては、春日中学校2階の教室で、国語の高瀬和子先生と一対一で書き直していった記憶がある。
先生が、その時どうだった? というような質問をなさり、考え答えていくと、
それが直しの文になっていく、という光景が浮かんで来る。
そのため、先生と二人で書いた作品だと思っている。また、「得度」という普通の家庭では経験できないことを書いたので、選ばれたのだろう、との思いもあった。
教室の窓際の席と、窓から見えた体育館、春日の空、飯田湾が作文の背景として共に在る。

作文が入選したことは知らされていたが、このような本になっていることは知らなかった。
それを教えてくださり本を手を届けてくださったのは一年の時の担任、砂山幸一先生だったはずである。

今、書いたものも整理しておこうと始めた整理の過程で、
「はとどけい」を手に取ってみると、当時の新聞の切り抜きが貼ってあるのに気づいた。母の字で昭和35年2月21日の書きこみがある
f:id:umiyamabusi:20170213200916j:image
※新聞記事

昭和35年2月21日
[タイトル]
水害は恐ろしい
小中学校作文コンクール
入選作百四編を集録
県教組
[本文]
約五千五百編のなかから選ばれた三十四年度石川県小中学校作文コンクールの入選五十二、佳作五十二、計百四編は詩と作文集「はとどけい」に集録され、二十日県教組から出版された。
県下各地の子供たちの生活の実感が活字を通してにじみ出ているが、なかでも子供の目からみた昨年夏の奥能登大水害の恐ろしさを訴えている数編が目立っている。
A5版、二百二ページ、県教組文化部の編集。
審査は小学校一、二年を山元二三子(田鶴浜田鶴浜小) 蔵本昌一(門前町櫛比小)、三年を槙坂弘(根上町福岡小) 出口和子(松任町旭小)、四年を南出吉郎(小松市月津小) 前田良雄(志賀町下甘田小)、五年を出雲武雄(金沢市大徳小) 浜野哲也(内浦町小木小)、六年を中村清作(山中町山中小) 藤岡武雄(志雄町志雄中)
中学一年を大筆栄夫(小松市安宅中) 清酒時男(七尾市香島中)、二年を渋崎栄竜(寺井町寺井中) 越野昭(津幡町笠谷中)、[三年を]石川敬信(松任町松任中) 有側末広(金沢市浅野川中)の各教諭が担当した。
入選の児童生徒次のとおり。
[詩]【小学校】
△一年「はざ」坂上信彦(能都翻町端穂小)「てらまいり」宮下みさ子(門前町別所小)「お医者さん」村中とき子(寺井町寺井小) △二年「ふろたき」松原正雄(寺井町湯野小)「としひろ君」本田みわ子(松任町旭小)「屋上から」大野川雄一(金沢市材木小)
(※当時の学校名など、面白いのだが以下の詩入選者略)
[詩]【中学校】
△一年「あんにゃ」東野義和(門前町黒島中)「あだ名」郡楽久(珠洲市春日中) △二年「冬服」浅田静子(金沢市野田中)「病院」岩坂洋子(内浦町小木中)「帰り道」大野敏恵(能都町鵜川中) △三年「海辺」山本孝子(根上町根上中)「母の背中」富山安代(小松市南部中)
[作文]【小学校】
△一年「岩からとんだ」安江良弘(金沢市長田小)「テレビ」杉本澄江(津幡町津幡小)「虫めがね」乾正和(小松市第一小) △二年「屋根なおし」山下勇(輪島市洲衛小)「赤ちゃん」西野みち子(松任町旭小)「店番」古田和夫(珠洲市飯田小)
(三年以上略)
【中学校】△一年「得度」西山郷史珠洲市春日中)「元気な祖母」中村一恵(小松市丸之内中)「台風の夜」斎藤真紀子(金沢市小将町中)
△二年「青少年赤十字団」米谷正子(珠洲市正院中)「大水害」角裕紀子(柳田村柳田中)「カボチャ事件」北野利幸(小松市安宅中)
△三年「けいべつ」井上宏美(小松市松陽中)「ふろ」細川洋之(根上町根上中)「おじさん」吉田邦子(小松市安宅中)

細かい新聞の字をレンズを使いながら見ていくと、思わぬ発見があった。
審査の先生方の中で小学校一二年の蔵本昌一、四年の前田良雄さんとは、ご一緒に仕事をしている。
蔵本さんとは、『奥能登のキリコ祭り』(奥能登広域圏事務組合、平成6年刊)および『門前町史』で、
前田さんとは、『鹿島町史 通史・民俗編』(昭和60年刊)を担当。前田さんはこの時志賀町立土田小学校校長で室矢幹夫さんと「昔話と伝説」を、私は当時飯田高校教員で「年中行事と宗教行事」を執筆した。
前田先生は、児童たちと版画カレンダー作成や民話版画の指導者としても名高く、『民話物語版画の実践』などの著書もある。
そして、中学3年生の作文審査をなさった石川敬信先生は、全体の総括者でもあったようで、お手紙を戴いたことがある。
昭和62年頃のことだった。
そこには、ガリ版の印刷物と「はとどけい」の作品コピー、それにお手紙が入っていた。私の作文に出会ってから28年ほどと書いておられ、それから今日までさらに30年ほどが経過している。
当時の教育界の様子や出会い・縁の不思議さがしみじみ感じられる出来事なので、お手紙を紹介する。
f:id:umiyamabusi:20170213221005j:image

「さて、みなさん方には、全く見ず知らずの私から、突然、こんな手紙が来たということで、吃驚なさったことでしょう。無理も無いことだと思います。
 実は、私のことですが、昭和十六年から四十一年間、主として石川県白山市内の各小・中学校に勤務して、昭和五十七年三月三十一日をもって退職した者です。最後は松任市立蕪城小学校長でした。その後、四年間、石川県教育委員会の仕事をしていたのですが、昨年の三月いっぱいで、これも退職させてもらいました。
 かれこれ四十五年間というもの、この道一本を歩いて来て、重い荷を降ろした時に、ハッと気がついたことは、生来決して頑健だとはいえなかった私がえらい年齢を重ねたということでした。そうです。間もなく六十五歳ですから…。「老い」の世界にかなり奥深く入り込んでいるのです。
 そんな私にも、一度は青春がありました。戦争にも駆り出されたのですが、帰って来て混乱の中の日本に、これからの日本を見すえたものです。うるおいの全くなくなっていた当時の国の状況の中で、子供だけが希望の光でした。遅蒔きの青春の血が燃え上がりました。
 子どもたちと共に歌をうたい、アンデルセンやグリムを読みました。ビルマの竪琴が出たときには、驚喜したものです。
 昭和二十四年頃から、教室の子どもたちに、エンピツをにぎらせて詩や作文を書かせ、それを文集にし、県内や全国各地の子ども好きで熱心な先生方とも交換し合いました。今、私が書いているこのガリ版ガリガリ書いたものです。どんなに嬉しかったことか、うるおいのない食べることにしか希望のもてなかった時代の、私の青春の一ページでした。
 そんなことをしている時、あなたの作品が目にとまったのです。そして三十年余りの日が経過して思ったことは、あの時に、思い悩み書いてくれたその人は、今、どこでどんな大人になっておられるだろうかという思いがつのって来たのです。もうすっかり成人なさって、問題の多い子どもの親となられていることだろうとは思いますが、これは、あくまで一般的な言い方で、人それぞれに運命があり、それぞれの運命にしたがって歩いておられることと思います。
 どうか、そのことを聞かせて欲しいのです。どんな形ででも、その後のこと、まわりの人のこと、何でもいいと思いますが、お願いできないかと思いましてお便りしたわけです。これも、私のささやかな一期一会の願いなのです。
 では、よろしくお願いいたします。」

入選・佳作入選者向け、一般的なこの文とは別に、次の文も入っていた。

「初めまして失礼します。
 西山さんのこの作文(同封)を目にしたのは、かなり前 そうです松任中学校で一年生を担任していたときです。とても面白い作文というか、私どもの全く知らない世界のことを、実に詳細にわたって描写しておいでることに感服したのです。
 二十八年ほど前ですから、私もようやく三十四歳頃でしたので、宗門の寺やホトケのことに関心もなく、ただ、教師の道を歩いていたものでした。つまり「教えること」に熱中していたものです。特に、長い間小学校ばかりにいて、子どもに教えられ、子どもの持っている邪気とか無垢の世界に、むしろ、楽しみを見出していた日々が、三十四年に中学校という世界に入って、その図式が急角度変えざるを得なかったものですから、教え込みの世界へ入らざるを得なかったのです。この教え込みの姿勢が、それからなかなか抜けず、爾後も、それに嫌悪を感ずるまでかなり歳月を経過しなければまらなくなったわけです。
 そんな私の歩みも加えて、もう一度読み返しているうちに、西山さんが二十八年の歳月のうちに、もっと大きな成長を遂げておいでるに違いないと思えて来ました。
 昨年、北國新聞の論稿を読ませていただいて、ああやっぱりその通りだったととてもなつかしく拝見いたしました。飯田高校にお勤めなんですね。
 あの年に、きっとあなたと同級であった郡楽君の「あだな」という詩も印象的でした。
 今からみると、いくらか血の通っていた時で、中学校も雰囲気がよかったように思います。ものの方のみ栄え心が痩せていくのがとても残念ですが、西山さんのこれからのお仕事御期待申しています。
 それでは、これで失礼いたします。御達者でいて下さい。」

私は返事だけはどんなことがあっても出しすようにしているので、このお手紙についても、作文を書いたときの思い出などを含めたお返事を出したはずだ。
石川さんが指定しておいでる新聞記事は、昭和55年秋に北國新聞文化欄に書いた「現在に残る能登国三十三観音」だろう。
それに郡楽(ごうら)君とあるが、郡楽久(ひさ)という名で、紛らわしいけど女性徒である。
ほとんど話したことがない人だったが、どこかで男子に間違えられて困る、と聞いたことがある。

※「得度」本文。
なんと言っても、作文の舞台は57年前。親鸞聖人700回忌より以前である。しかも12歳の少年から見た世界でもある。現在の視点との違いはあるが、当時の本山付近の雰囲気を伝えているので、ほぼ原作のまま転載する。

「前々からうわさのあった僕達(僕と弟)の得度は七月四日に、門徒達に集まってもらい、いよいよ正式に行なわれることに決定した。
七月十八日、父が七尾の教務所で、いろいろの手続をすまし、「うまくいったからこれから御経の練習だ。」といわれた。門前の小僧でさえ習わぬ御経を読む.のだから、門内の小僧はと、はりきって練習した。しぶいどっしりと落ちついた父の声につけて、僕と弟のかん高い声が続く。上がる所、下がる所、のばす所、短かくいう所等、本に書いてあるのだがなかたかうまくいかない。始めは弟のほうがうまいとほめられたが、だんだん「やっぱり兄貴だわい」といわれるようになり、毎日、ほめられたりけなされたり、エレベーターのように上げ下げされているうちに、まあまあといわれる所までいった。
 得度とは、始めて僧侶になる儀式のことで、真宗では、しんらん上人が、九才の時かみの毛をそりおとされ出家されたのが、始まりだそうだ。僕の寺は真宗大谷派なので、東本願寺で受けるのだ。式は八月七日にあるので、五日の日に、母と弟ど僕とまず七尾の教務所で、得度を受けるための、御経の試験を受けた。教務所長ざんの前で弟と声を合わせて、あみだ経の始めを少し読んだ。なんだか胸がドキドキしていたが、腹にぐっと力を入れて読んだ。よく練習をしてきたせいか、いつもより大きくはっきり読むことができたように思った。「たいへん上手である。」とほめられたら、うれしさが全身に広がりさいさきがいいぞと思った。
 津幡駅で夜行の大阪行に乗りかえ、七時過ぎに京都駅に着いた。朝の京都の町は、くっぎりはれあがった夏空の下に、まだ静かに眠っているようだった。すぐ平安という衣屋へ入って少し休み、宿は東本願寺の横の、大谷会館に決めた。京都は盆地なので、暑いのを覚悟して来たのだが、宿はものすごく広く、大きく、風も入るので、暑いとは感じなかった。
 午後一時半から本山で、明日の得度についての注意があるというので、でかけた。本願寺の大屋根には、たくさんの鳩がのどかに飛びかい、広い境内は参譜の人が大勢だったが、本堂の中は、ぶきみなくらい静まり返っている。廊下は長く長く続き、ピカピカと光っていて、ある廊下などは、百間もあるそうだ。部屋数も多く、一枚のからかみ、一つのらんまにも、手のこんだ模様がほどこしてあり、ちようど映画に出てくる大名やしきのそれを想橡した。時々坊さんがすべるように、静かに廊下をゆききしている。得度に米た人は、男女、子供、としよりなど二百三十人余り、つきそいをまぜると五百人以上はいただろう。
 黒い衣を着た係の人から、名前を順番によびだされた後、頭は必ずそるように、白衣の下にじゅばんをきるようになど、いろいろと明日の注意があり、終ってから、すぐ.床屋へ頭をそりに行ったが、先に十人ほどきていた。かみそりが「ジョリジョリ」あたるたびに、今にも頭がなくなるような気がして、とても気持が悪かった。鏡に写っている青々とした頭ではにかんでいる自分の顔は、どうみてもいつもの自分ではない。外へ出るのがいやだったが、同じようなクリクリ頭が大分いたので、少したつと頭のことは、なれてしまった。京都の夜の町の美しさを見物したいと思ったが、明日のことが気になるので、早々と床についた。夜行のつかれで、ぐっすりと休み、翌朝ほんとうに気持よく床をはなれた。
 七時半に本山へ行き、水干といって白い平安時代に貴族が着たような服装をさせられ、今日の儀式のけいこをした。真宗の僧侶になる印の盃の受けかた、かみそりで頭をなぜられるおかみそりの儀式の練習、そうこうしているうちに、十時になったので、白書院という御殿へ行った。昼とは思えなくあたりはひっそりと静まりかえり、順番通りに坐っていく水干のふれあう音のみが開こえるだけである。やがて黒い衣をまとわれた御門跡がしずしずと入ってこられた。皆、おしえられた形のごとく、一斉に頭をさげる。真宗、一千万人信者から、うやまいしたわれている御門跡様は、とても上品で細いおかただった。御門跡は、おつきの人のさしだすおさかずきのお酒をお飲みになり、いらっしゃった時と同様に、静かに出てゆかれた。咳一つするものもなく、皆の目は御門跡の一挙手一とうそくを凝視していた。時間にすれば五分位、この間一切無言。お盃の儀は終わったのである。
 練習をした割に、かんたんな儀式で、荘重ではあったが、時間も短かく、とてもあっけないように思った。僕達も、記念の盃をもらい、酒を少しずつついでもらってさて飲もうと思ったが、素焼の土器は、いつのまにか、僕の酒を吸いこんでしまい、一滴も残っていなかった。なんだかはいだるかったが、不服もいえず、だまって飲むまねをしていた。このお盃の儀の後、すぐ太子(大師)堂へゆき、水干の上へ、白いふわっとした着物をはおり、おかみそりをまった。親らん様はかみの毛をそりおとされる、すなわちおかみそりを、夜なさったので今もおかみそりの儀式は夜のふんいきの中にするのだそうだ。重いどっしりとした白木の戸を四方とも、ぴしっとしめきってしまい、大きなローソクの光だけが、ほの明るくあたりをてらし、影ぼうしが、ぼうーと浮きでて、夜と全くかわらない。たくさんの人の間を、順番に御門跡様が、かみそりで頭を三べんづつなでられて進まれてゆく。そのたびに、大きな衣のそでのみが右に左にゆれ「シューシュー」と衣ずれの音がする。僕の頭をなぜられる時、こそがしくて今にも笑い出しそうになったが、ぐっとがまんをした。多くの人は、頭を上げ下げして、熱心に御門跡をおがんでいる。たくさんの人の人いきれと、しめきった部屋の暑さで、終る頃には白衣にべったり汗がついて、歩きにくくて困った。おかみそりの儀も無事にすませ、すぐ白い衣と水干をぬぎ、黒い衣にかえ、すみげさと法名をもらっていると、つきそいの人達も入ってきて、御門跡様の御経におまいりした。蚊の鳴くような小さい声で読まれていた。それが終ると、大しんでんで度牒と、僧侶手帳と、証書をもらった。「案ずるより生むがやすし」とかいわれるが、気にしていた得度の大任もこれですみ立派な新発意になったわけである。門徒の人達も両親もどんなによろこんでくれるだろう。その後円山公園にある東大谷廟へ、たくさんの得度の人達といっしょに、観光ハスでおまいりした。
 今までの重くるしい気持と違い、青一色の大空にもまけない位、あっさりと晴々とした気持だった。優がな京なまりのバスガールの声も快く耳にひびく。廟の前にこれからも、ますます人にまけない立派な、僧侶になる事を誓って、わかれをつげた。
(評)意欲的な大胆さをかいましよう。所々にユーモアをまじえるなど、余裕たっぷりですね、欲を言えば、もっと構成をしぼって、しかも広ざと、深さを出してほしかった。そうすれば通り一辺な、味気ない感じを受けずにすむのではないでしょうか。」

昭和34年(1959)8月7日 得度

f:id:umiyamabusi:20170214100845j:image
弟(当時小学5年)が写っているが、私は分からない。
f:id:umiyamabusi:20170214095528j:image
水干姿-現今は水干を用いないようだ。
f:id:umiyamabusi:20170214095527j:image

8月14日 お盆デビュー
f:id:umiyamabusi:20170214095526j:image
弟は、この12日(日)、仕事の関係で家に寄っていった。

追記ー執筆文を確かめ、所収本の発行年月日などを確かめていたら、もう一冊古い本が出てきた。

作文は、もう一段階の展開を見せていたのだ。
f:id:umiyamabusi:20170224221304j:image
『中学生 私たちの生活と意見』日本作文の会 国分一太郎責任編集
出版社は小峰書店 380円 昭和38年6月15日発行
その通り書いてあるのだろうと、読み比べてみると、
元・上手である→直し、おじょうずである、
津幡駅敦賀(つるが)駅、
あたまのことは、なれて→あたまのことはなれて、
おかただった。→おかただ。
と同様に→とどうように、
一滴も→いってきも、
のように、直しが入っている。
津幡から北陸線になるので、七尾線から北陸線に乗り換えるのは少しでも座席を確保しようと、金沢より手前の津幡に決めていた。それが能登人の「通」気分だった。
その事情を知らない人が、敦賀に変えてしまいご丁寧に振り仮名まで振っている。
白書院も<はくしょいん>のふりがな。これは「しろしょいん」だろう。

純朴な少年の文を、大人が勝手に変えていく。
タイトルも「得度したぼく」になっていて、最後にデーターが載っている。そこには、得度したぼく 西山郷史 石川 珠洲市春日中学校 指導者・石川敬信 原題・標題と同じ。
原題は「得度」、そういえば石川って誰だ、と思った記憶がよみがえってきた。
指導してくださったのは春日中学校の国語の先生・高瀬和子先生ー 
なのに、どうして見たことも聞いた事もない人の名が書いてあるのだろう、????…だった。
なんだかおかしな大人社会をのぞき見てしまったような、ーこの本の時はー15歳だった。