南龍雄氏 76歳

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能登国の山城 中世の羽咋郡鹿島郡 能登口郡・中世の特徴的な城塞群について(上編)』

今朝の新聞死亡欄・七尾市に南龍雄さんの名が載っていた。
76歳10日逝去とあるだけで、私の知っている南さんか別の方なのか分からないので、書棚にある南さんの著書の奥付けを見た。
住所が同じなので間違いない。

南さんは教員をなさっていたが、城跡を調べ縄張り図を作成なさるのに全力を注がれ、教員を退職してまで多くの城跡を調べられた。
私も『珠洲散策のーと』の黒峰城に南さんの縄張り図を転載させていただいたことがある。
時々、珠洲焼資料館へお見えになり、調査中の山城について情熱的に語って行かれた。
あのパワーみなぎる姿を時に思いだし、どうしておいでるだろうと、つい最近も思っていたところだった。

近年、実績のある研究者の紹介が全くなく、名のみの状況がずーっと続いている。
今村充夫さんなどは、加能民俗の会会長、同時期に石川県短歌協会会長を勤められ、亡くなられたときも日本民俗学会理事だったはずである。
もっとも、死は等しく、どういう業績があろうと名のみを紹介するという考えも貴いが、
財界人・政治家などは本人だけでなくご両親までどういう方の関係であるか紹介されるのに、
文化人・研究者、教育者などが紹介されることがなくなっている。
石川県は文化県も標榜しているはずなのに、その文化・歴史・民俗を見出し、論にまとめ著書もある方々が
紹介されないのは寂しい。
結局、母体の学会が学会として活動していないせいだろう。


それで、南さんについて取り上げた。
何冊かの私家版著作をいただいているはずだが、本の整理が進んでいないので、上記の本以外探し出せない。
この時南さんは、
北陸城郭研究会
石川考古学研究会
石川郷土史学会
北陸歴史研究会に所属なさっている。
この平成10年刊の本にご恵贈下さったときの文が挟まっていた。
※「ご恵贈」は初めて使ってみた。恵与とも。
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「御指導を賜りながら」調査を続けておいでるという4人の方々のは和嶋俊二、坂下喜久次、篠原映之、桜井重行氏で、
いずれも、この数年の間に世を去られた。

和嶋俊二氏

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「あとがき」を読んでみて、あらためて宿題をいただいたような気がする。
そして、担当の平凡社・内山直三さんの名をに出会った時、そういえば内山さんからお電話をいただき、この本の出版について、ちょっとした相談に乗ったことを思いだした。

坂下喜久次氏

本棚をぱーっと見たところ、執筆作代表の『七尾城と小丸山城』が見当たらないので、
アクタス北國新聞社刊)今月号に載った記事・写真を。
この方は、喜久次さんと従兄弟(母親が恋路の坂下家の出)。
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『七尾城と小丸山城』

篠原映之氏

珠洲市史』第2巻「個別寺院誌」の真宗寺院執筆。真宗大谷派正福寺住職。
正福寺は、蓮如上人草案御文、十二光佛、膨大な真宗寺院関係文書などを有しており、誰でも身近に見られるように、境内に宝物庫を作られた。

桜井重行氏

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上戸(うえど)柳田神社宮司
能登の暮らしに息づく相撲」(『北國文華』2016年春号)に載せた写真は、
桜井さんにお借りした。


私が珠洲市文化財保護審議委員を辞めたあとも、これらの方々は文化財保護審議委員を務められ、文化財保護にご活躍なさった。
いずれも大先輩だが、南さんとの思い出を語ることが出来るとすれば、この方々しかいない。

(西山)南さんが亡くなられたそうですね。
(故・桜井)永禅寺古墳付近の城跡に萩城の名を付けられた時の調査は、萩が綺麗なときだったのですよ…
などと、先に帰られた方々の顔を思い浮かべ、このようにお話しなさるだろうの、一人対話にしかならない…。

※参考『奥能登の研究 歴史・民俗・宗教』あとがき

このたび、永年にわたって執筆してぎた郷土に関する拙稿が、はしなくも神奈川大学網野善彦先生のお世話で、我ながらびっくりするような素晴しい体裁で平凡社から発刊されることになった。大変有り難く、こみあげる嬉しさの反面、内容的に至らない点もあり、また間違っていることどもも多いのではないかと、じくじたる気持も交錯する複雑な心境である。
 おもえば、未知なる郷土を明らかにしたいと戦後半世紀余にわたって自分なりの調査を継続してこれた原動力は、ひとくちに言って戦争体験である。とくに昭和十九年十月十日、米機動隊による沖縄空爆であった。命を鴻毛の軽きに比したつもりのつわものも、直撃弾をうけた戦友の無惨な姿に茫然となり、一瞬なすすべもなく立ちすくんだ弱い人間としての自覚、陣地構築に明け暮れるなかにも不幸な沖縄の歴史を感じとった。明治十二年のいわゆる琉球処分以来、大正末にいたるまでの沖縄県民への差別が壮青年層の根深いコンプレックスとなっていること、あの人なつっこく優しい人たちに対する誤った政策が歴史の断絶となって国力に大きく影響していることを痛感させられた。
 ひるがえって、小学校以来何回も国史を習ったが、足もとの郷土についてまったく無知である自分もまた同様であることの自覚、もし命を全うして復員したらまず身のまわりの歴史を調べたいと、このとき決心したのであった。
 また、『古琉球』(伊波普猷著)の「P音考」に興味をひかれた。日本語五十音の現在のハ行が、H音の以前はF音で、その先はP音であったという。たまたま、石川県出身者で編制されてきた歩兵第七連隊もその隊員を石川県からは徴集できず、十九年秋、現地沖縄の初年兵を入隊させ、その身上調査で「P音考」を試してみた。沖縄本島は北から国(くに)頭(がみ)・中(なか)頭(がみ)・島(しま)尻(じり)(首里那覇が含まれる)の三郡からなり、その文化度も南ほど高いので、北からP・F・H音に変っていることを確認し、あらためて沖縄に深い愛着の念をもったのであった。
 さいわいにも、昭和二十一年一月、台湾から復員することになった。歩兵第七連隊は無傷であり、その郷土も爆撃の被害がない。新しい文化日本は石川県からと、有志互いに語り合って別れたのであった。
 こうした思いで過してきた五十余年、郷士に関することなら何でも知りたいと、暇を見いだしては貧欲に歩き廻った。そしてたくさんの方がたから教えをうけた。珠洲郷土史研究会という仲間づくりもできた。『すずろものがたり』というささやかな機関誌も継続してきた。
 学恩ある方がたのお名前を列挙してあらためてお礼を申さなければならないのであるが、紙数の余裕もなく申訳ないが欠礼させていただき、最後に拙稿編集の労をとっていただいた牛凡社の内山直三氏、あとをうけてまとめ仕上げをしていただいた増田政巳氏にお礼申しあげてあとがきとする。
(後日の報で、内山直三氏には病魔で発れられたとのことを知り、ただただご冥福をお祈りするばかりである)
平成九年三月                    
                                 和嶋俊二