手紙、賀状の整理。一年に一度、生きていることを確かめ合う「年賀状」

普段会うことはないが、タイトルの気分で賀状交換をしている関係はかなりある。
父が還帰して今年は二十七回忌を迎える。さすがに父と付き合いがはじまって賀状を交換しているのだろうな?と思える、どのような人なのか見当がつかない賀状は、さすがに無くなったような気がするのだが、
今年は、驚くべき数通の賀状が届いた。

日本という国は、何でも区切りを付けるのが好きなようで、年齢に色んな別名がある。
還暦・古稀喜寿・卒寿・米寿、それに○○高齢者までが加わってきた。
このどれかを用いて、○○なので、来年から賀状をやめさせていただくことになるかも知れません…が数通あったのだ。
病がちなので、とか、字が書けなくなったのでなら分かるが、
還暦は、さぁ自由になった、これからはと張り切っていた人たちが、次の区切り?を機に付き合い世界を狭める。
次の区切りは、寿のつくことが多いのだから、例えばおかげさまで、○寿の年を迎えさせていただきました。
ガタガタだけどまた明日からは励んでいきます…であるべきだろう。

昔の人々は一年ごとの区切りだった。一年はサイクルであって、足し算ではない。
小林秀雄が「無常といふこと」だったかに喝破している、現代人が持った「最も青ざめた思想」である、年が行く(加わる)が、賀状を通して溢れだしている。
仏教は、「朝(あした)に紅顔ありといえども、夕(ゆうべ)に白骨となれる身なり」だし、明日ありと思う心のあだ桜の一時ひとときを大切に、なのだから、賀状をやめますという区切りはどうしたものだ、と思ってしまう(もっともドンドン付き合いが広がりすぎた…はあるだろうけど)。

昨年は、初任校・羽咋工業高校で教えをいただいた校長・松岡正信先生が1月19日、97歳で
次の校長先生で結婚式にも参列いただいた鍋岡利明先生が4月5日91歳で還帰なされた。
確かに、鍋岡先生は、平成17年の賀状に、一病息災ではあるが、八十路を迎え、体の衰え疲れを覚えるようになり、賀状も今年で失礼することになるとと思いますが「お許し下さい。」と書いておられた。
また、経済変動で、大変だろうなと思える時期に、ある地域からの欠礼賀状もあったが
それらは賀状がなくとも、どこかで通じ合っている(と思っている)。

私から見れば、まだ若い初任校の先輩方からの出家宣言みたいな賀状に出会い、
特に初任校では、右も左も分からなくてオロオロしていたころに、先輩教師から学んだことは多く、
一年に一度、賀状を通してお元気ですね、と確かめていた、
これからはそれがなくなる。これは大変だ、と、羽咋の家を訪ねて会いに行ってきた。

おかしな話だが、皆さんそれぞれに、元気だった。
もう一つおかしな話なのだが、欠礼予定賀状をきっかけに、
懐かしくお世話になった方々に会うことが出来たのだ。

そして、どうして(私が)羽咋工業を去ったのか?とずっーと疑問に思われていた方に答えることが出来、
一方で、毎日4時半になると図書室で英文日記を書いておられた先輩に、あの姿が、私の教員生活の励み・手本になったと言ったら、
当人がそんなことあったっけ?と答えられ、
別の意味での年月の流れも味わった。

ということで、時系列をはっきりさせておかねば、と、
昔からの手紙、賀状を何日もかかって整理した。

鍋岡先生の欠礼賀状も、整理中に見つけたのである。

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法話資料、恩師などに分類

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~2012。再生用に