網野善彦氏『「日本」とは何か』
1月21日、七尾きくざわ書店で、じっくり、新書、文庫、人文書コーナーを見回した。
そこで購入したのが、『浄土真宗とは何か』『江戸の板本』『菜根譚』『覚えておきたい極めつきの名句1000』。
講談社学術文庫のコーナーに、背表紙に「日本の歴史00」とある本が目に止まった。
網野善彦先生の『「日本」とは何か』だった。
00号、不思議な号数のこの本には、思い出がある。
網野さんご夫婦と知り合ったのは、1984年8月7日。
真っ黒に日焼けした短パン姿で、大庭で子ども達と遊んでいた時だった。
故・和嶋先生が、車がないので(私に)案内してもらえないかと一組の男女を連れておいでたのだった。
確か、「売り出し中の研究者と奥さん」と紹介なさり、
私は何となく「網野」という人ではないかと思い、網野さんですか?と話しかけたのが、その後、時国家を通じて毎年一泊は共にした始めだった。
和嶋先生は忙しくて一緒に行けないということで、いくつかの伝説地、
さらに中居鋳物師研究に取り組んでおられた長谷進氏宅を中居に訪ねた。
網野先生は56,7歳、私は36,7の時である。
若かった。だからと言うべきなのか、私にとっては網野さんで、おなくなりになるまでずーっと網野さんだった。
それが、本屋さんで名を見たりしているうちに、~さんでお呼びするのがおこがましくなってきて、今は、網野先生である。
もう一人、大桑さんを、あるとき大桑先生と呼んだら、お前を教えた覚えはない(から先生なんて呼ぶな)とおっしゃった大桑さんも、今は大桑先生である。ばりばりお元気なご様子。
文庫に戻るが、解説を少し立ち読みすると、先生がよく話されていた戦前の学生運動時代、奥さんの兄・中沢厚氏に出会って民俗と歴史の融合をはかられ歩まれた、網野史学の結晶(あるいは遺言に近い)の本だと書いてある。
家へ帰って、00巻を取り出してみた。
帯(背表紙にも)に[実物有題]とあって、
その帯を取ると、その下に普通の帯が施されている。
→PDF
2000年10月24日 第一刷発行、とあるこの本と「添え書き」を、
涙ながらに押し頂いたのは、
このブログを始める5年も前の出来事だったのだ。
『「日本」とは何か』目次
言っておかなければならない、残さなければならない思い…、が伝わってくる。
※PDFを取り込むことが出来なくなった。それで添え書きを以下に
拝啓
猛暑の続いた夏もようやく終わり、秋らしい涼風を感じるこの頃ですが、ご
清祥のことと拝察いたします。
過日の私の入院、手術にさいしましては、お心のこもったお見舞いを賜り
ましたこと厚く御礼申し上げます。その後、ご無沙汰をつづけておりました
が、退院後の放射線治療も終わり次第に食欲、体力ともに回復、どうやら日
常生活は不自由なく過ごせるようになりました。ここまで元気になることが
出来ましたのは、ひとえに皆様方の暖かいお励ましによるものと、衷心より
感謝申し上げます。もとより病気の性質上、完全な治癒はたやすく望み得ず、
また肺の三分の一を切除したため、病気以前のようなことは到底できません
が、今後は体力に即して、無理のないように生活していきたいと思っており
ますので、何卒よろしくお願いいたします。
なお同封いたしました拙著は、病後にかけてようやく書き上げました。一
向にかわりばえのしないものですが、見本が出来ましたので、お送りいたし
ます。お暇の折りに御笑覧、御批判いただければ幸いに存じます。
気候の不順な季節に入ってまいりました。くれぐれも御自愛のほど心から
お祈りしております。
敬具
九月二十日
網野 善彦
西山郷史様
その後
先生が還帰なさってから数年して、ご遺族が思い出の地、能登を訪れられた。
その時の写真が何枚もあるのに、日付を書かなかったために、それがいつのことだったのか分からないままになっていた。
一度、知り合いから網野さんのご家族が能登を訪ねてこられたのは?とか、彼の記憶なのだろう…寒いときではなかったか?
と聞かれたが、一緒に過ごしたことは鮮明に覚えているのだが、季節・年は記憶から飛んでいる。
そのようなこともあって、一月下旬から数十年分の賀状・手紙を整理した。
網野先生は、『「日本」とは何か』発行から五年後の平成16年(2004)2月27日、76歳で世を去られた。
その後の眞知子奥さんとの手紙・葉書のやりとりで、
平成17年(2005)11月13日に、先生の実家近く、境内に姥塚古墳のある笛吹市南照院墓地に埋骨。
ご遺族が能登へ来られたのは、2010年(平成22年)3月31日(水)のことだったのだ。
毎年、奥能登調査で神奈川大「常民研究所」のスタッフとお泊まりになった、能登観光ホテル(真浦町)近くで。