『真宗の音楽 はるかなる願いの讃歌』〈蓮如上人五百回御遠忌記念〉ー交声曲『蓮如』と北川博夫氏

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平成11年10月16日・17日、当寺で行われた「蓮如上人500回御遠忌法要」のポスターである。
この時、アトラクション
「◎「交響曲蓮如』」・「心の故郷ー童謡ー」(CD)から数曲ずつ
 [出演]声楽家・北川博夫氏(両CDのソリスト)その他」と印刷し、紹介している。
北川氏は、『真宗の音楽 はるかなる願いの讃歌』(CD)【交声曲「蓮如】以外にも、暁烏敏(作詞)・立野勇(作曲)「十億の人に」、深沢富子(作詞)・渋沢沢兆(作曲)「源三さん」を独唱しておいでる。
当寺では、その「源三さん」をご子息の北川辰彦氏(近年、レシピ・アン〜音楽と料理で幸せのおもてなし〜、BSフジなどでもご活躍中)が歌われた。深く印象に残っている。

交声曲「蓮如

※『真宗の音楽 はるかなる願いの讃歌』〈蓮如上人五百回御遠忌記念〉より
土岐善麿作詞・清水脩作曲によるもので・蓮如上人四百五十回御遠忌〔昭和24年)を記念して制作されました。
蓮如上人〔1415~1499〕は本願寺第8代留守職で、宗祖親鴛聖人の教えを当時の民衆に広く伝えられ、今日の教団の基礎を築かれた方です。
上人は、現在真宗門徒が日常的にお勤めしている「正信偈・和讃」による動行形式を定められ、また、御門徒に多数の「御文」をお書きになり、親鸞聖人の教えをわかりやすく説かれました。
 この交声曲「蓮如」は、
1、Introduction 2、一念の信 3、げにやただ 4、かくては消えん 5、本尊は 6、ものをいえ 7、げにわれやさき 8、みあとしのべば 9、念仏の合唱
の9章からなる作品で、1948(昭和23)年に東京、京都、大阪で相次いで演奏され、京都では、5月3日に本山御影堂において、朝比奈隆指揮、関西交響楽団、独唱中山悌一、砂原美智子、岩崎成章により演奏されました。
 また、翌1949(昭和24)年、蓮如上人四百五十回御遠忌期間中の4月23日には、京都松竹座において、御遠忌を記念して「日本宗教音楽演奏会」が開催され、交声曲「蓮如」は新作交声曲「平和」とともに演奏されました。当時の『真宗』誌によると、近代音楽に真正面から取り組んだ仏教音楽の荘厳さと迫力が、満員の聴衆に多くの感銘を与えたと伝えています。

交声曲『蓮如
作詞 土岐善麿
作曲 清水 脩
指揮 蒔田尚昊
○木場澄江 ※ソプラノ
○市川和彦 ※テノール
○北川博夫 ※バリトン
○東京混声合唱
キングレコード御遠忌記念オーケストラ

1 Introducdon
2 一念の信
一念の信を得て 今 安養にいたる
穢身ながく絶ち 法柑すみやかに証す
十方の衆生のため 仏は
まさに正覚をとりたまえり
一向専念無量寿佛 一向専念無量寿
われは他力の行者なり
信楽歓喜限りなし

3 げにやただ
げにやただ たのむまことの
かしこさに
いまやすらぎの 心えて
この身このまゝ 大慈悲の
浄きみ国に いたるとき
おしてる光 あまねくも
み法のすがた まのあたり

4 かくては消えん
かくては消えん 法の灯
ふたたびたかく いまぞかかげよ
仏のみ名を 称うるばかりと
母のさとしを 幼なごころに
いそしみたまえる みいのち尊と
をみなはまして 罪も深きに
雪つむあたり よしや吉崎
うちしく法の 法のむしろに
集いて
救けたまえや 摂めたまえと
いたわりたまえる 朝宵かしこ

5 本尊は
本尊は掛け破れ 聖教は読み破れ
人間は 唯 電光朝露 稲光の影
朝の露のみ 夢まぼろしの 夢幻の間の
はかなき一夜の 楽しみぞかし
いくとせ いかに苦しくとも
つばさたゆまぬ 鷺の森
松の緑のいろそいて 越えゆく奥は山科や
六十路 七十路 道遠し

6 ものをいえ
ものをいえ ものをいえ
ものをいうこそ うれしけれ
ものをいえ ものをいえ
ものをいうこそ うれしげれ
信も不信も ものをいえ
いざおのづから いざこころのそこも
ひらくべし
ものをいわぬぞ おそろしき
ただものをいえ ものをいえ
ものをいえ ものをいえ
さとしもつきず 月影の
いたらぬ里は なけれども
ながむる人の 心にぞすむや
うき世をさながらに 安養浄土 今ここに
五つの不思議 無碍光の
功徳をあおぐ あらたさよ

7 げにわれやさき
げに げにわれやさき ひとやさき
今日ともしらず 明日ともしらず
あしたには紅顔の 花のよそほい
かがやけど
夕べには 白骨の くちゆぐ野辺の
露しずく
夜半の けむりの あともなし

8 みあとしのべば
み跡しのべば 春の花
無常の風に 散りみだれ
み文ひらけば 秋の月
真如のかげの さやけしや
かの本願の名号は
清浄の業と説かれたり
他力とは 阿弥陀一仏
帰命とは 信楽本願
行住坐臥に 念仏を
申さるべき ばかりなり
南無阿弥陀 南無阿弥陀

9 念仏の合唱

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

〈用語読み〉

例えば仏はブツ、ホトケといずれで歌われているのか?読みを記す。
2 安養 あんにょう、穢身 えしん、法相 ほうしょう、仏 ほとけ、
  正覚 しょうがく 信楽 しんぎょう 歓喜 かんぎ 
3 心 こころ
4 救け たすけ 攝め おさめ 朝宵 あさよい
5 聖教 しょうぎょう 稻光 いなずま 間 あいだ 一夜 ひとよ
6 安養浄土 あんようじょうど 無碍光 むげこう 功徳 くどく
7 信楽 しんぎょう

カンタータ蓮如関係者

大谷大学大学院に入ったのは1969年4月。院友(?)となった友を通して、講義を終えた梅津次郎先生のおごりで大学近くの喫茶店に度々行った。その梅津先生と一緒に歩いておられた土岐善麿氏を見たことがある。大谷では国史に属したが、大学では国文を学んだ関係で、土岐善麿の名は伝説の人物のように思っていたのである。その実物に出会えるとは、京都のすごさを知り、一方で立ちすくむような感覚も覚えた。この詩は、いわば土岐氏蓮如理解の集約でもある。しかし、この本の解説以外は、他の作詞家を含め、真宗と音楽関係者として語られることがなかった。
 『真宗の音楽 はるかなる願いの讃歌』〈蓮如上人五百回御遠忌記念〉』を、今一度見直す必要があるのではないか。
ついでに三条の古本屋で新村出にあったことがある。名は知っていても顔は知らない.古本屋のおばさんが新村出だと教えてくれた。
以下、カンタータ蓮如関係の人物を調べ紹介する。清水脩は、一時期グリークラブにいたときから「月光とピエロ」(『真宗の音楽』にも採られている)、「恩徳讃」などで身近だった。この作品の指揮者は名を読むことも出来ない。
 それで、関係者のプロフィールを以下に記す。

作詞・土岐善麿(1885~1980)

明治18年東京都真宗大谷派等光寺に生まれる。早稲田大学卒業、文学博士、紫綬褒章受章する。《阿難》《ああこのよろこび》《降誕讃歌》カンタータ蓮如》など仏教音楽作品多数を発表する。
特にカンタータ蓮如》は蓮如上人450回御遠忌記念演奏会に上演され今も最も記憶に残る大作として多くの人々の語り草として記憶に残っている。
 (『真宗の音楽 はるかなる願いの讃歌』〈蓮如上人五百回御遠忌記念〉プロフイール)
○とき ぜんまろ、1885年(明治18年)6月8日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の歌人国語学者
東京府東京市浅草区浅草松清町(現在の東京都台東区西浅草一丁目)の真宗大谷派の寺院に生まれる。東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)を経て、早稲田大学英文科に進み、島村抱月に師事。窪田空穂の第一歌集『まひる野』に感銘を受け、同級の若山牧水と共に作歌に励んだ。
卒業の後、読売新聞記者となった1910年(明治43年)に第一歌集『NAKIWARAI』を「哀果」の号で出版、この歌集はローマ字綴りの一首三行書きという異色のものであり、当時東京朝日新聞にいた石川啄木が批評を書いている。同年啄木も第一歌集『一握の砂』を出し、文芸評論家の楠山正雄が啄木と善麿を歌壇の新しいホープとして読売紙上で取り上げた。これをきっかけとして善麿は啄木と知り合うようになり、雑誌『樹木と果実』の創刊を計画するなど親交を深めたものの、1912年(明治45年)に啄木が死去。啄木の死後も善麿は遺族を助け、『啄木遺稿』『啄木全集』の編纂・刊行に尽力するなど、啄木を世に出すことに努めた。その後も読売に勤務しながらも歌作を続け、社会部長にあった1917年(大正6年)に東京遷都50年の記念博覧会協賛事業として東京~京都間のリレー競走「東海道駅伝」を企画し大成功を収めた。これが今日の「駅伝」の起こりとなっている。
翌1918年(大正7年)に朝日新聞に転じるが自由主義者として非難され、1940年(昭和15年)に退社し戦時下を隠遁生活で過ごしながら、田安宗武の研究に取り組む。
戦後再び歌作に励み、1946年(昭和21年)には新憲法施行記念国民歌『われらの日本』を作詞する(作曲・信時潔)。翌年には『田安宗武』によって学士院賞を受賞した。同年に窪田の後任として早稲田大学教授となり、上代文学を講じた他、杜甫の研究や長唄の新作を世に出すなど多彩な業績をあげた。新作能を多数物した作者としても名高い。紫綬褒章受章。
第一歌集でローマ字で書いた歌集を発表したことから、ローマ字運動やエスペラントの普及にも深く関わった。また国語審議会会長を歴任し、現代国語・国字の基礎の確立に尽くした。戦後の新字・新仮名導入にも大きな役割を果たしている。 (ウキペディア)
明治43年出版の第一歌集『NAKIWARAI』は日常生活の哀感をローマ字三行書きで歌って歌壇の注目を集め、石川啄木に大きな影響を与えた。それを契機に交流を始め、雑誌「樹木と果実」の創刊を計画したが果たすことはできなかった。
 貧困と病によって倒された石川啄木の葬儀を生家の西浅草・等光寺で行い、遺骨も一時埋葬、遺族の擁護、全集発刊につとめるなど友情を尽くした土岐善麿は、その68年後の昭和55年4月15日、下目黒の自宅で心不全により死去した。94歳、啄木の26歳に比して、なんと長寿であったことか。自身の会葬御礼に記した歌がある。〈わがために一基の碑をも建つるなかれ 歌は集中にあり 人は地上にあり〉。
〈死後二年の啄木を、事につけては思う心。〉との解説がある歌〈石川はえらかつたな、と おちつけば、しみじみとして思ふなり、今も。〉。
土岐善麿はローマ字綴りの一首三行書きによって、石川啄木とともに歌壇の新しいホープとして注目され、啄木死後、遺稿歌集『悲しき玩具』発行に尽力した。「一念」とのみ刻された一メートルばかりの黒御影の細い石柱が立っている。香立てに「土岐」の文字があるばかり。浅草・東本願寺近くにある善麿の生家、等光寺裏墓地の門扉のすぐ先にあるその墓碑の清楚さに、達観した人柄が偲ばれて心が洗われた。本堂前に啄木の歌碑がある。〈浅草の夜のにぎわひに まぎれ入り まぎれ出て来しさびしき心 啄木〉。(文学者掃苔録)

作曲・清水脩(1911~1986) しみずおさむ

明治44年大阪四天王寺に牛まれる。大阪外国語学校仏語部、東京音楽学校(現・東京芸大)卒業・全日本
合唱連盟理事長、日本宗教音楽協会創立に参画する。日本プ・合唱団連合会委員長、日本合唱協会代表等要
職歴任。紫綬褒章受章。
作品としてオペラ《修善寺物語ン《俊寛》、合唱曲《月光とピエ鱒ほか、舞台音楽、交響曲室内楽
歌曲、箏、雅楽器曲など多岐にわたる。
仏教作品として交声曲く蓮如}《平和}《歎異抄》《阿糞齢など多数。
受賞曲としては、昭和14年第8回音楽コンクールで管弦楽曲《花に寄せたる舞踏組曲》第1位・同25年管
弦楽曲《インド旋律による4楽章》文部大臣賞受賞など、その他多くの作品で受賞・
(『真宗の音楽 はるかなる願いの讃歌』〈蓮如上人五百回御遠忌記念〉)

指揮者・蒔田 尚昊(まいた しょうこう、1935年3月13日~ )

日本の作曲家。別名、冬木 透(ふゆき とおる)。
満州国の首都新京出身。エリザベト短期大学作曲科卒業後、同短期大学宗教音楽専攻科修了。TBS(当時ラジオ東京)に入社して効果を担当しつつ、国立音楽大学作曲科に編入。合唱曲、特に児童合唱のための作・編曲が多い。また、宗教曲(キリスト教)も書いている。
映画・テレビの音楽を担当する際は、冬木透の名前を使っている。この分野では、『ウルトラセブン』に始まるウルトラシリーズや、NHK連続テレビ小説鳩子の海』などが知られている。
特に『帰ってきたウルトラマン』の防衛隊・MATのテーマで流れる男性コーラス「ワンダバ」は、その後のウルトラシリーズの防衛隊音楽に大きな影響を与えた。
また、『ウルトラマンA』第51話「命を吸う音」では、バイオリン教室の先生役で出演している。
クラシック音楽にも精通しており、その流用も多く行った。『ウルトラセブン』の最終回ではシューマンのピアノ協奏曲を流用したほか、フィンランドを舞台としたアニメ『牧場の少女カトリ』の劇伴使用曲は、そのほぼ全曲がフィンランドの作曲家シベリウスの作品からの編曲であった。女優の岡本舞は娘である。
蒔田尚昊名義の作品
ピアノコンチェルティーノ「かごめかごめ」、ピアノコンチェルティーノ「アラベスク」、歌曲「秋」「海の子守唄」、歌曲「あどけない話」、歌曲「智恵子抄」(高村光太郎・詩)I 樹下の二人 II あどけない話 III 同棲同類 IV 千鳥と遊ぶ千恵子 V レモン哀歌、合唱組曲「ハーモニーの輪」、アンデルセン組曲(女声/児童合唱、独唱、ピアノ、ナレーションのための)、児童合唱のための「町の子の原っぱ」、花と草と風と(第52回NHK全国学校音楽コンクール小学校の部課題曲)、同声三部合唱による「蝙蝠のワルツ」、典礼聖歌388番・讃美歌21 57番・新聖歌40番「ガリラヤの風かおる丘で」
冬木透名義の作品
鞍馬天狗(1956年、KRテレビ)、いろはにほへと(1959年、KRテレビ)、判決(1962年/1978年、NET/テレビ朝日)、ここに泉あり(1964年、東京12チャンネル)、レモンのような女(1967年、TBS)、風(1967年、TBS)、ウルトラシリーズ ウルトラセブン(1967年、TBS)
帰ってきたウルトラマン(1971年、TBS)、ウルトラマンA(1972年、TBS)、ウルトラマンレオ(1974年、TBS)、ザ☆ウルトラマン(1979年、TBS)-第2回録音分のみ。主題歌と第1回録音分は『ウルトラQ』、『ウルトラマン』の音楽を手がけた宮内國郎による。
ウルトラマン80(1980年、TBS)、ウルトラセブン1999最終章6部作(1999年)、ウルトラマンネオス(2000年)、ウルトラマンコスモス(2001年、毎日放送)、悲しみよこんにちは(1967年、TBS)、妖術武芸帳(1969年、TBS)、ミラーマン(1971年、フジテレビ)、ファイヤーマン(1973年、日本テレビ)、鳩子の海(1974年、NHK)、それ行け!カッチン(1975年、TBS)、恐竜探険隊ボーンフリー(1976年、NET)、太陽の牙ダグラム(1981年、テレビ東京)、ちょっと神様(1982年、TBS)、牧場の少女カトリ1984年、フジテレビ)、機甲界ガリアン1984年、日本テレビ)、NHKニュース21 テーマ曲(桐朋学園音楽学部・演奏)
映画音楽。無常、曼陀羅、哥、怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス、燃える男 長島茂雄 栄光の背番号3、ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT、大決戦!超ウルトラ8兄弟(「音楽特別参加」という形でクレジットされている)、ホームカミング(2011年3月12日公開) ※栗山和樹と共同で担当、その他多くの楽曲提供。 (ウキペディア)

木場 澄江(こば すみえ、ソプラノ)

ソプラノ声楽家
東京藝術大学音楽学部声楽科卒。二期会を経て、ウィーン国立音楽大学に留学。修学後は、演奏活動[1]、多数CD録音の他、ミュンヘンでの「手工芸メッセ」では開幕に際し、ミュンヘン市長、クリスティアン・ウーデを始め、バイエルン州政治家他に日本歌曲を歌唱、また「札幌-ミュンヘン姉妹都市交流」の日本代表を務める。
フランスのファッション雑誌「Marie claire」(マリ・クレール)2002年3月号(ドイツ、スイス、オーストリア版)に「ドイツで活躍する女性音楽家」として取り上げられ、2006年には、ドイツ開催のサッカーワールドカップ写真展「参加国の人々」„Faces - Peaceful Colours of Cultures“で日本人代表に選ばれ、2週間に渡りポツダム広場に大写真が掲げられた。クラシック以外にも、ワーナーミュージックのアニメ音楽CDの録音もある。写真やインタビューを含むドイツでの新聞掲載は、南ドイツ新聞、ライン新聞(Rheinische Post)、ミュンヘン メルクール新聞(Münchner Merkur)、アール新聞、シュトラウビング新聞、エーバースベルク新聞、ミュンヘン日本人会会報等、多々。
声楽以外の活動では、ドイツ、バイエルン州の日独協会(ドイツでは「独日協会」)記念式典のドイツ語司会、ドイツのトヨタの記念式典のドイツ語司会兼歌唱演奏等、執筆、翻訳を含め、活躍を広げている。

市川 和彦(テノール

三重県出身。東京藝術大学卒業。第23回日伊声楽コンコルソ入選・同26回入賞。藝大「メサイアテノールソロでデビュー。「メサイア「第九」をはじめモーツアルトベートーヴェンストラヴィンスキーブルックナー・オルフ・ドヴォルザークブリテンヴェルディ・グノー・サンサーンス他の宗教曲のソリストを数多く務める。オペラでは、藤原歌劇団「椿姫」「カルメン」「トスカ」「蝶々夫人」「ルチア」「イル・カンピエッロ」「イタリアのトルコ人」「ロメオとジュリエット」、日本オペラ協会よさこい節」「祝い歌が流れる夜に」「あだ」「ペトロ岐部」「死神」「那須與一」「修禅寺物語」「瀧廉太郎」「キジムナー時を翔ける」、新国立劇場「建・TAKERU」「蝶々夫人」「ナブッコ」「カルメン」「マノン・レスコー」「ドン・キショット」「魔笛」「トゥーランドット」「トスカ」「ドン・カルロ」「オテッロ」「黒船―夜明け」、四国二期会・栃木県民オペラ・国民文化祭(千葉・栃木・三重)・静岡県民オペラ・豊島区・尚美学園びわ湖ホールオーチャードホールサントリーホール・札幌室内歌劇場・新日本フィル・神奈川フィル・東響他にて「トゥーランドット」「椿姫」「魔笛」「カルメン」「シチリアの夕べの祈り」「スティッフェーリオ」「天国の歌姫」「岩長姫」「那須与一」「贄のうたげ」「ミナモ」「エフゲニー・オネーギン」「チャルダーシュの歌姫」「メリー・ウィドウ」「ひかりのゆりかご」「君と見る夢」他のオペラ、オペレッタに多数出演。また宮本亜門演出
ピノキオ」「コズィ・ファン・トゥッテ」にも出演している。その他NHK・FM・ニッポン放送等のラジオ放送に出演。‘02/北京(天橋劇場)にて、日中国交正常化30周年記念行事で、小澤征爾指揮、浅利慶太演出「蝶々夫人」に出演。‘94年度文化庁芸術家在外派遣研修員としてイタリア・ミラノにて研修。現在、藤原歌劇団正団員。日本演奏連盟・高声会会員。慶応義塾大学・日本女子大学混声合唱団「コール・メロディオン」常任ヴォイストレーナー池上本門寺コーラスグループ「水」指揮者。玉川大学芸術学部パフォーミング・アーツ学科非常勤講師。 (ウキペディア)