秋安居(あんご)『顕浄土真実証文類』解釈ー小川一乗先生

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写真は先生の許可をいただいて撮影


9月13日(火)14:00~18:00、
14日(水)9:30~11:30、12:30
能登教務所で、秋安居が行われ、参加した。
講師は小川一乗先生。
講義をお聞きしたのは今年の6月4日(土)、第4組同朋大会で富来・本光寺さんへ先生がおいでになった時。
引き続き、今度はじっくりお話しを聞くことが出来る。
(多くの方々には申し訳ないが、真宗門徒に生まれた至福)。

小川先生は、仏教学の第一人者で、かつて親戚の僧がわかりやすい本があると進めてくれたのも先生の本だった。(小川一乗講話選集1~3)

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全身でお話しを受け止めることが出来るよう、前日、テキストを予習した。
ところがほとんど仏教学を学んだことがない私には難読語が多く、読み方を知るのさえ苦労した。

例えば「開講の辞」部分の引用ー尽く般泥洹に止住せん。ーの「般泥洹」。出典の真宗全書1巻目78頁を見ると、漢文が出てきた。
ハンデイゴウと仮に読んで、真宗辞典、真宗大辞典、仏教学辞典などを調べるが出てこない。

ウキペディアを見ると、他宗の説明の中で、この語が見える。
泥洹はナイオン、般はハツ、すなわちハツナイオン、涅槃のことらしい。法藏館版仏教学辞典の涅槃を見ると泥洹ないおんとある。般はpariパリの音写で完全の意。涅槃はニルバーナnirvānaとも。
この調子なので、本文179頁中41頁迄の予習で、出発時間を迎える。


極めて理路整然とした講義で、わかりにくいところはありませんか、と確かめながらお話しを進めなさる。
70年前後の混沌としていて学べなかった学問に、いま出会えている思いだった。
歴史、哲学、法(ダルマ)を整然と積み重ねていく方法とでも言おうか、
網野善彦さんの話は、そのまま本になるお話しだったことを思い出させ、歴史の本で整然としていることに驚いた井上光貞氏(中央公論版『日本史1』)の文を聞く思いだった。
難しく感じるのは、それを越え、手早く辞書等で調べることの出来る力を育てよう、の思いの発露でもあることがわかった。

確かに私たちは、与えられ過ぎだ。
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このように、真剣にメモを取った(予習は鉛筆)。
先生は昭和11年お生まれ。
5年前に食道癌で手術なさっておいでるそうで、大変なご負担だったと思われるが、ギリギリまで精力的にお話しなさる。
疲れ果てた、というところま「でお話しなさり(それが時間いっぱい)、おやめになる。
その後の質問の時間は必要ないと思った。
仏教学に詳しい人がお話を確かめる、そのような質問ならいいし、そういう質問もあった。
ところが2日間とも、いつも能登の僧の代表であるかのように質問する人、
知識をひけらかすだけの若き僧が質問した。


そのことに腹が立って、考えもせず、今回は発言しないぞと決めてきていたのに、その2人に対するつもりで、質問というか意見を早口で言ってしまった、のである。

先生はその3人(私も含めた)に、丁寧に答えられ、意見を述べられる。
そうなったら、どこに向いているかわからない質問というか意見を言ってしまった。


なーんと言うことだ…(ただただ、反省)。

自分の意見をどんな場でも言いたいだけの人(と、私が思っている人)の意見ともう1人によって、民主主義の問題、テロの話題になっていった。


これは今、思うのだが、間接民主主義に対し、直接民主主義の実験が全共闘運動だった。
その時の理念は、自己否定。
自分は学生として学んでいる。自分より優秀な友が家が貧しく働いている。
彼らの支えによって学ばせてもらっている、その学問とはなんだ?
が根本の問いかけだった。
その頂点の東大・京大の存在が問われた。
その時の学生の一部が、
立てこもっている学生に、東大来たかったら試験で合格して来いといったということで、セクト色がくっきりし出した。

一方10・21は、新宿から佐世保まで運ばれるベトナム空爆用の燃料を僅かの時間で止めることができれば、少なくともベトナム民衆の命を守れるという、力の差のある戦争に抗議する運動だった(列車を運転する方の生活はどうなんだの、切りの無い問い、があった上で…)。
そのような思いを持った学生・人々が集まって新宿騒乱、大坂の御堂筋占拠(これも大阪駅に向かう動きがあったはずだ)が起きた。


それから半年後に、私は大谷大学・院に入学した。
間借り先の傾いた下宿に、京大陥落の時の催涙ガスが漂ってきて、ボロボロ涙を流しながら大学へ向かう電車に乗ったこともある。
町に溢れていた学生・労働者のエネルギーは、出口が見えず、あるいは押さえられる中で、決して一緒になるはずのない理論を持つグループが合流して先鋭化し、最終的に連合赤軍事件となって消えていった。
多くの若者は、やるせなさを隠し、ただ働いた。
それが高度成長を生み支えた。
歴史の「果」は悲しむべき人間の性(さが)を露呈したまま静かさを保っているようだが、ある時期までの根源的と呼ばれた問いかけまでを、失ってはならないのではないか。
自己否定は懺悔に通じる。
育ててくれた友に返す学問、すべての人が共有できる学問は、朋・同朋観とも通じ合うはずだ。
柳田国男が目指した、台所で学べる学問もそうだ。
しかし、理念は失われ、民俗学さえも難しい学問になっってしまった。
民俗をやっていた多くの先輩方のやさしさは、理念の違った戦中・戦後を教員として過ごさざるを得なかった…、そこから来るやさしさっだっったのだ、と今、思う。
その方々は、すべて世を去った。
そして、その方々と共に生きた研究者も、僅かしかいない。


そのような時を過ごした多くの同世代、あるいは後輩たちは
いま、学びたいと思っている。

私のお寺でやっている十組の推進員講座に、なにかちゃんとした物を学びたいと来ておいでる方が何人もおいでる。

その思いが、私にあるのだと感じることが出来た2日間だった。
今まで考えることを避け、封印していた青春時代をちゃんと見ろよ、と問われたような気がする。
小川先生は、「人間として」に触れられた。
永六輔が関わった「面白半分」
真継伸彦さんが中心メンバーの一人だった「人間として」は、去年の暮れだったか今年の初めだったか、その時代の諸雑誌と共にほとんど捨てた。


仕事人間として、エコノミーアニマルと揶揄されながら脇目を振らずに働いてきた同世代は、こういう講義に出会いたいのだろうな、
この2日間の講義に出会うことが出来たら、どれだけ喜ぶ奴がいるだろう、と思って聞いていた…


ところで、
昨晩は小川先生に初めてお会いするのに、図々しくも宴席にも混じった。
今まで、謦咳に接したいと思っても、大概知り合いが周りを取り囲み、側へ寄ることが出来なかった。
今回は、教え子や知人と先生の対話を聞きながら、離れた所にいて楽しもうと考えた。
ところが、参加者の中では、なんと、私が一番年寄りで、先生の正面に座らざるを得なかった。
年は取りたくない。緊張の時が流れ、ホテルに帰って予習しようと思ったが、思いはちょっと掠めただけで、二次会に混じった(若者たちに混じった)。
橋幸夫北原謙二舟木一夫三橋美智也を歌いまくった。
今度は、年を忘れ、気分は少年・学生になっていた。

14日朝ー七尾城ー

場所は七尾。
翌朝、講義までに時間がある。
七尾城を訪ねて、展望台でカラオケの続き、古城(三橋美智也)を歌ってきた。
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七尾城道途中
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本丸駐車場から。能登島方面。
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七尾城跡、遊佐屋敷、桜馬場
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城山展望台。約380?。(百間馬場)

帰り道というか教務所へ向かおうとした時、
立派なイノシシが道に飛び出して来て、車を見て素早く元の林に消えた。
初めてイノシシを見た。
印象は立派な彫り物のイノシシと同じだ!
車の速度を緩めて写真を撮ればよかった。
ゆっくり行ってぶつかってこられたら大変だと一瞬思ったからスピードを緩めなかったのじゃないか、
などなど。

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平成元年『五如理論ー中論の要諦』
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『縁起に生きる』法藏館
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『平等の命を生きる』
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『いま人間を考える』

鈴木章子さん『癌告知のあとでー私の如是我聞』


2013年(平成25年)8月11日のブログに「12月31日、5月17日「今現在説法」-『癌告知のあとでー私の如是我聞』」と題して書いている。
以下そのまま転載。


この本には相当感動し、何冊も買って、何人かにお配りしたはずである。
今、再び読んでみて、「今現在説法」が強く胸を打った。


以前は、この言葉ではなく、一人の篤信の方の生き方に惹かれたと思うのだが、
受け止め方が違ってきたのは、
それは一つに様々な事を包み込んでの年齢を重ねてきたこともあるだろう、
それに、鈴木章子さんが文の中で取り上げられておられ、感化も受けなさったのであろう東井義雄氏、林暁宇氏の存在を、どこかで気にしながら読んだのが、お二方とも亡くなっておられるはずで、
そのことが直接、鈴木章子さんとの対話になった。

そのせいなのだろう、文・詩がビンビン響いて胸を打ち、
今、部屋に「今現在説法」と書いて、張っている。

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この方の「如是我聞」の一部を抜き取っても、深さの一端にも触れ得ないことは分かっているが
数編紹介させていただく。

悲しみ

 別にこらえたり
 我慢したりすることはないと思います
 おんおん泣いて
 涙を出しきってみると
 涙でかくれていたものが
 ポロッと顔を出してきます
 本願力様に会えるのですね

ベット

 説法はお寺で
 お坊さまから
 聞くものと思ってましたのに…

 肺癌になってみたら
 あそこ ここと
 如来さまのご説法が
 自然にきこえてまいります
 このベットの上が
 法座の一等席のようです

おあさじ

 癌になってから
 親鷺様が毎朝いらして
 お正信偈をお聴かせ下さる
 蓮如様がいらして
 お文をお聴かせ下さる
 うす暗いお内佛の間に
 灯明に照らされた
 南無阿弥陀佛の名号と共に
 数えきれぬ方々が来て下さる
 章子一人に
満堂の
 ご講師様
 先達様
 善知識様
 もったいないことで
 ございます
 (昭和六十三年十一月一日)

昭和16年5月17日 北海道常呂郡ー現北見市留辺蘂町で生を受く
昭和39年8月 結婚、真宗大谷派西念寺坊守となる(北海道斜里郡斜里町本町39番地)
昭和63年12月31日 還浄

縁・きっかけ

本を読む時には、色んなきっかけがある。
いい本に出会う「縁」があったことになるのだが、
この本を再読するきっかけになったのは、一つの歌碑から始まる。
珠洲の木の浦・千本椿近くの森の中に
大月みやこ・飯田三郎(作曲)・高橋掬太郎(作詞)コンビの
「奥能登ブルース」の歌碑があって、
時々、そのことを郷土史講座なので話すのだが、ほとんどの人が知らないという。
飯田・高橋コンビで「ここに幸あり」「啼くな小鳩よ」を作っており、
高橋氏には「古城」「雨に咲く花」「酒は涙かため息か」「石狩川エレジー」などがある。
それに大月みやこ、とくれば知られていないのが不思議なのだが、
調べてみると、大月みやこが売れ出すまでに20年かかっており、
「奥能登部ブルース」はデビュー2・3年目の曲だった。

全く売れていない頃の曲だったため、知られることもなく、そのまま
現在に至ったと考えるべきなのだろう。


そのような曲のいきさつを調べているうちに、
飯田・高橋コンビが根室出身であることを知った。


その時、ふーっと、あの鈴木章子さんは根室近くの方ではなかっただろうか?
と思い、本を手にしたのである。
そして、「今現在説法」(阿弥陀経)に出会った。


留辺蘂は読めなかった。
「るべしべ」という。


留辺蘂斜里町根室
一度は訪れてみたい
夢のラインだ。


ここから今回。
小川先生が食道癌になられたことを話された時、
私の家系はガン系統でして、鈴木章子(あやこ)もガンで…とお話しなさった。
鈴木章子さんは小川家から鈴木家に嫁がれた。一乗先生の妹君であられる。

懇親会の席上、この本の背景を話してくださった。
そして、広陵兼純師と同級生で、兼順師が北海道の自坊にお説教においでたことにも触れなさった。
同級生だけど、あんなに謙虚な人はいないと、べた褒めだった。
そういえば、7月の祠堂経の時、広陵さんが小川一乗さんのお寺にお説教に行ってきた、と言っていた。
一筆書いてもらった、あんな大先生の直筆をいただけるのだから、布教使(師)をしていてよかった…、と、そのような事を話してくださった。

そうだった、と思ったが一筆のことまで思いいたらず、
小川先生にはお話ししなかった。

広陵さんに対しては、小川先生は存じ上げないけど、広陵さんの色紙もらえれば感激する人がいっぱいいるんじゃない…と話したような気がする。

どんな一筆をいただいたのかも含め、秋の能登を巡ってこようかと思う。


ブログの鈴木章子さんを検索したら、カラオケと城跡で2日間に亘って歌った「古城」がピンポイントだった。