真継伸彦氏の思い出-今までのブログ記事
26年前、平凡社の編集者(故・内山直三)さんから、平凡社選書に一冊書かないかと話を頂いたことがあった。
選書にするには「月刊平凡」に連載し、それをまとめるのだという。
教員を辞め、住職になり、声明の勉強、『中島町史』民俗主任で調査もあり、とバタバタの頃で話は立ち消えになったのだが、余裕があってやるとすれば、江戸期の真宗門徒の巡拝を考えた。
そろそろ余裕が出てきたので、門徒たちが巡拝先で手に入れた刷り物、講師の講義録の写しなど、かなり手元にあるのをブログに記録しておこうと思っている。
あの頃は、門徒の巡拝地を訪ねようくらいの気持ちだったのが、今は整理するぐらいの気力しかない。
その前に、最古の御文書写本である蓮崇本御文が市の指定にもなっていないいきさつや、
一般にはに「ヘンジャ(瓶子屋)御書」と呼ばれていること、
また、蓮如上人の字と見まがう蓮崇本書写本の存在、版木本などの存在があり、蓮崇本の広がりについて書こうと思い整理を始めたのだが、
その先に蓮崇を扱った真継伸彦氏の『無明』を読もうと、一日一枚ペースで読み始めた。昨晩までに読んだところが、ここー「この加賀の湯涌谷、破門された下間安芸殿の籠居に身を寄せ…」のところである。
そうして、今朝、朝日新聞を開くと、真継伸彦氏御逝去が報じられていた。
亡くなられたのは聖徳太子、歓喜光院乗如上人ご命日、22日だった。
どうしておいでるかな、と思いながら氏の本を開いている時の報、奇遇というしかない。
2016年(平成28年)8月25日(木)朝日新聞朝刊
2000年(平成12年)10月22日
2000年11月4日
真継伸彦氏の本
【追加20161115】
『光る聲』河出文藝選書
2000年9月2日
今までのブログで触れた真継氏。
20141001水 究其涯底(くごがいてい)
本を整理していて、「真宗大谷派大聖寺教区「蓮如上人五百回忌御遠忌」記念
大谷暢顯門首御染筆」とある、綺麗な包装紙に包まれてある字を見た。
そこにあるとおり、大聖寺教区でシンポジウムに参加したときに頂いたのだが、勝手に御染筆コピーだと思いこんでいた。
御染筆とあって複写の言葉がどこにもないのだから、御門首の字なのに、ついこの前まで気づかなかった。
染みが出来はじめていて慌てて表装した。
染み抜きも施され、30日、写真のように綺麗な軸に仕上がってきた。
この大聖寺教区御遠忌には、真継伸彦氏たちとシンポジウムを行い、それをきっかけに真継氏が我が家に泊まり、御示談を聞くため、中島蓮浄寺さんで行われた御崇敬にお参りしたのだった。
それにしても、本の整理をしなかったらそのままになってしまったかも知れない大聖寺での御遠忌記念。
いつのことだったのだろう?
当時のパンフが見つかった。
2000年9月2日(土)だった。
この日、私が最後に待ち合わせ場所の喫茶店につき、初めての方々と顔を合わせた。
お互いに知らないのだから、誰が一番年寄りなのか、といった話題になり、たぶん西山さんが年配ではないかと話し合っていたとおっしゃる。
真継伸彦、伊香間祐學、そして私。司会は伊勢谷功氏がなさった。
聴衆の中に、大聖寺高校の社会科の先生、その他の教員が聞きに来ておられた。
真継伸彦氏の話が終わると、彼らは帰っていった。その時、私が話し始めていた。
私でも、あの「真継伸彦を見てこよう」となるよな…。
真継氏は、蓮如上人御遺言にある、病気に対して加持祈祷などをしない、それを守って真宗が現代に到っている、ことを高く評価されていた。、
覚えているのは、これらぐらいで、御染筆をその時に頂いた記憶は消えていたのである。
包みに大聖寺教区とあるので、そうだったなのだが、
この2000年は、
能登教区教区会副議長、珠洲焼資料館館長、七尾市史専門委員民俗部会長などの職にあり、
それぞれに忙しかった。
県歴博の特別展・若山庄の準備にも関わっており、定期的な8組坊守会講師、「臥龍の集い」という夜の勉強会も行っていた。
5月13日の金沢教区同朋大会の講師をはじめ、講義もそこそこあった。
原稿の方も
「共同体とお年寄り」『老熟の力』早稲田大学出版(400字詰め原稿用紙28枚)
「昭和38年から43年の飯田高校の歴史」『飯田高等学校90周年誌』(120枚)
書評「日本史の中の女性と仏教」「宗教民俗研究」(25枚)
連載「珠洲の風物詩」1~5「季刊能登」(10枚)
「珠洲焼」「御影道中」『日本民俗写真大系』8 (4枚)
「阿部判官伝承」『若山庄を歩く』県立歴史博物館(22枚)
他に数点の新聞記事を書いている。
1つの行事が終われば、次々と先を見なくてはならず、終わった行事の余韻に浸っている暇はなかったのだ。
そのうち、忘却の彼方。
御門首の書かれた「究其涯底」には、以下のような説明書が入っている。
「大谷暢顯門首御染筆
究其涯底
この句の出典は『仏説無量寿経』上巻の「嘆仏偈(たんぶつげ)」(真宗聖典十一頁)の一句てある。
「嘆仏偈」は、四言八十句からなり、阿弥陀如来が法藏菩薩である時に、その師仏である世自在王仏の徳を讃歎(さんだん)された偈文である。
仏は、深く甚深の道理を窮(きわ)め尽(つ)くし、真実を完全に悟っておられるということであり、仏は私ー人間ーの本当の姿の奥底まで見きわめておられるという意である。、
大谷暢顕門首は一九九六年に真宗大谷派第二十五代を継承され、法名を釈浄如、雅号を愚岳という。」
20140715夏休みー白山麓ー
『大地の仏者』大桑斉、福島和人氏。能登印刷出版部、昭和58年刊。
序文を真継伸彦氏が書いておられ、特に任誓を評価しておいです。
久しぶりに取り出してみて、真継氏にも驚いたが、
選ばれている僧がかなりユニーク。
「泰澄と臥の行者」「日像と加賀太郎・北太郎」「瑩山と峨山」「蓮如をめぐる女性たち」「願得寺実悟」「任誓」「能登の頓成」「加賀の三羽烏」「山本清嗣」「西田幾多郎と鈴木大拙」
20130516 5月9日、関山和夫師逝去
真継伸彦「ナンセンスの伝統ー仏教と落語ー」(北國新聞、昭和54年(1797)1月11日)
(PDF)
2013年04月17日 教如上人ー400回忌ー
真継伸彦氏の監修で、総論・親鸞と現代(真継伸彦)
親鸞(広瀬杲)、覚如と存覚(梅原隆章)、蓮如(五木寛之)、教如(大桑斉)、清沢満之(福島寛隆)
の執筆陣。教如、清沢満之と大谷派関係者が多いが、福島氏は龍谷大教授で、派にとらわれない強さを感じさせる編集だ。
本を開くと、真継氏からの葉書が二枚、はさまっていた。
2000年の12月、氏と一緒に中島町で行われた歓喜光院殿御崇敬(かんぎこういんでんごそっきょう)の「御示談」を
聞きに行ったときの、やりとりの葉書だった。
大聖寺教区の蓮如上人550回御遠忌のシンポジウムで真継氏とご一緒し、
その時に、まとまった話だった。
私の家で一泊され、御崇敬の後は、和倉のビジネスホテルに泊まったのだった。
私の家では、学生時代のファンだった高橋和巳氏、その回りの人々(高橋たか子、埴谷雄高氏)の話をしてもらい、贅沢な時を過ごした。
今、あらためてみると、五木寛之氏と同年生まれ。
14日には五木氏の講演を聞いたのだが、2000年の頃の葉書の文は、
今の五木氏以上の老境に立っておいでになるようだ。
今年も、最近になって賀状の返事が届き、一言、「お元気で!」と、添えられてあった。
字の勢いは、その頃と変わらない。
お元気なのだろう。
2006年06月27日(火) 聞法ーたんにお参りすることーの難しさ
ご門徒と同じ場で聞くのが好き、なのだ。
ところが、 能登のちょっとした行事に行くと、
世話をする人々の中に大抵知り合いがいる。
真継伸彦さんと御示談を聞きに行った御崇敬では、
奥座敷に案内され、
中島町史で御崇敬の準備段階を調べに行ったときには、
住職の代わりに御崇敬の歴史を語らされ、
門前町史の時は議長だったもので、
組長さんが見つけて、議長が来ています。挨拶を…。
と、いうようなことまであった。
というわけで、
能登で、本堂の雰囲気を味わいながら、
法に親しむのは、結構難しいのだ。
僧籍にある人間が、
聞法に各地を歩く風習が育っていなかったのだと思うのだが…
2006年03月20日(月)真継伸彦氏と著書
真継伸彦さんも、一晩、当寺で過ごして行かれた。
河出書房新社の新鋭作家叢書は好きなシリーズだった。
この本には『鮫』『石こそ語れ』『死者への手紙』が収められている。
1971年の刊。
私の学生時代に出た本だ。
高橋和巳の諸作品と共に、真継さんの本も何冊か読んだ。
高橋和巳、高橋たか子、埴谷雄高氏などのエピソードを、
ビールを傾けながら、いっぱい聞いた。
学生時代ファンだったことは隠して置いた。
本にサインも貰っていない…。
2005年12月26日(月)著者の賀状・真継伸彦氏
「賀正
一昨年来、親鸞の和讃について執筆したり、
「教行信証」の勉強会をつづけたりして、
いよいよこのお人の信心に傾倒しております。
頭はしだいにボケてきて、
「念仏の行者は愚者と成りて往生すべし」という、
法然→親鸞を貫く金言が、いよいよ身に沁み、
ぼんやりウットリしております。
皆様にはご健勝を!
真継伸彦 七十三才の春」
こうありたい。
、ISBN:4309400248:detai、l