半村良氏の疎開先、ご母堂の実家

ウキペディアー半村良
2006年1月31日にこのブログに書いた半村良作『能登怪異譚』書評に関する記事である。

能登怪異譚』

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半村良
昭和62(1987)年。集英社刊。
この写真は1993年刊の文庫本のもの。
解説に
「世にも不思議な九つの物語が能登方言で物語られている。
方言による怪異譚集といえば、すぐに柳田国男の『遠野物語』が思い出されるが、
(中略)民俗学の研究書であって、厳密な意味での物語ではない。
この『能登怪異譚』にも、原型となる伝承はあったかもしれないが、それを物語に仕上げたのは、あくまでも作者自身である。
また、会話の部分に大阪弁や京都弁などの方言を使った小説はたくさんあるが、
この作品集のように語り口まで方言で統一したものは、
詩や戯曲を含めても、ほとんど前例がない。
私の知る限りでは、高木恭三氏の津軽方言詩集『まるめろ』ぐらいなものである。
(中略)津軽在住の高木氏と違って、半村氏は東京生まれの東京育ちなのだから、
これはもはや方法的冒険家の方法的な勝利を示すものといわなければならない。」
遠野物語が研究書?
方言詩集が一冊?
宮沢賢治の「アメユジュトテチテケンジャ…」は部分的方言なのか?
何よりも、東京生まれの東京育ちが能登弁を駆使して小説を書いたら、
誰に手ほどきを受けたのか考えなくちゃならない…と思うのだが…。


半村の母は能登町三波の人であり、
半村が母の実家に疎開していた頃、出会った本=『蔦葛木曽桟』(国枝史郎)が、
彼の伝奇小説家として大成していく中で、大いなる影響を与えたというのは、
調べあげられている。
(『ふるさと石川の文学』p244:水洞幸夫)。


東京育ちかも知れないが、家ではオッカーの能登弁が飛び交う日々であらしゃったに違いないげぞけ
(おっと、方言が乱れた)。


ところで私が読んだ本(研究書なんだろうが)には、母は三波の人としか書いてない。
細川たかしの出身地は釶内〈なたうち〉、
なかにし礼の母の珠洲(実際は旧珠洲郡)と同じくらい大雑把だ。
三波は藤波、波並、矢波地区の総称である。


もう一度「ところで」、
今日のTVに半村良作の『戦国自衛隊』を流していた。
これは見なくてはなるまいと、怖いところでは指の間から目を出し、
見呆けていたので、こんな時間になってしまった(今一時半)。」
以上。

現在

戸坂潤の富来など、人生に大きな影響をあたえている母親の実家が忘れられていることに気づく中で、半村良もそうだたったなぁ…と思いだしていた。
その頃から、状況は変わっていない。
水洞氏に問い合わせ、三波小学校の校長をなさった方にも聞いたが藤波、波並、矢波のどこかは判然としないままだった。
ただ、私はどこかで母の実家は三波の一地区名であると聞いたことがあり、そこにお住まいの先輩教員に問い合わせたところ、彼は、半村良が母の実家に来た時、町長をしていた父とともに訪ねたことがある、と話してくださった。
 私としては、~の~家が母の実家で、作品に大きな影響をあたえた少年時代に読書した家と蔵はここ、と残しておかないと、三波のままに忘れ去られてしまうのではないか、との危惧はあるのだが、
実家は資料館ではないので、ご実家へ半村ファンや研究者が訪ねて来たり電話してきてもお困りになるだろう。
今日2度訪ねてお年寄りにお会いできたので、そのあたりのお話をした。


良はどの参考文献を見ても、文庫の解説のように東京生まれとなっている。
戸籍上それでいいのだが、今日おばあさんがお話しなさったように、ここで生まれた、のであろう。
ウィキペディアのように能登疎開していた程度であれば、我が家にも何組も疎開しておいでたので、同じレベルになる。
母の実家が、重要なのだ。

半村良を紹介している文

『ふるさと石川の文学』より
「東京下町の深川に生まれた半村は、小学校一年の時、父を敗血症で亡くす。彼と彼の弟の二人の子供をかかえた母親は、戦中、戦後の困難な時期を苦労の末に女手ひとつで乗り切っていくのだが、その母の郷里が旧三波村(現、能都町)であり、戦争末期に一時、半村は母の実家に疎開していたことがある。その祖父の家の白壁の土蔵には本や雑誌がつまっており、そこで半村は自身の生涯を決定した国枝史郎『蔦葛木曽桟(つたかずらきそのかけはし)』に出会う。これをむさぼり読んだ半村は伝奇小説の強烈な魅力にとらわれたのであり、母の実家の蔵の中でのこの幸福な記憶が、後に『石の血脈」、『産霊山秘録』、『妖星伝』等の長編伝奇小説を生み出す原点となった。」(水洞幸夫執筆)。


 この本より12年前に刊行された『北陸・名作の舞台』小林輝冶監修、平成3年北國新聞社刊には、著者名はないがほぼ同文が載っている(p114)。
 「土地の有力者であった祖父の家」などとこちらの方が情報が丁寧で、疎開中の子供が「伝奇小説の強烈な魅力にとらわれたのであり、」と、伝記作家だけではなく、「雨やどり」などの人情作品、それ以外にも勝れた作品の多い半村を伝奇だけに規定してしまう文もなく、同じ人が書いたにしろ、こちらの方がいい紹介だと思うので、併せて紹介する。
半村良昭和8年、東京生まれ)にとって奥能登は特別な場所である。小学校一年時に父を肺血症で亡くして以来、彼と弟の二人の子供を戦中、戦後の困難な時代に女手ひとつで育ててくれた母の郷里が旧三波村(現、能都町)であり、戦争末期にその母の実家に疎開している。土地の有力者であった祖父の家には、中にいっぱい本や雑誌がつまった白壁の大きな土蔵があり、そこで国枝史郎の「蔦葛木曽桟」(大正11~15年)に出会う。この長編物語を土蔵の中でむさぼり読んだ幸福な記憶が後に「石の血脈(昭和48年)、」「産霊山秘録(昭和46年)」、「妖星伝(昭和48年)」等の長編伝奇小説の傑作をを産み出した原点となっている。つまり能登は彼にとって二重の意味で母なる土地なのである。」

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「中にいっぱい本や雑誌がつまった白壁の大きな土蔵」がこの土蔵。
基盤部の石など豪壮と言ってもいい土蔵で、「土地の有力者であった祖父」を輩出した旧家であることが頷ける

能登』次号の伝説のふるさとー間島、山田太盛院取材。
9月25日に富来郷土史研究会で話す、「西田幾多郞、三木清、戸坂潤と真宗」の資料集めに戸坂潤と京大時代同級だった能都町の西谷啓治資料館を訪ねた。
次いでと言ってはなんだが、気になっていた半村良の関係も探し訪ねたのである。