歴代墓のある真宗寺院、『御文』(2帖目9通)の背景

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五輪
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歴代・全体
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PDF 門前町史・墓制
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町史調査時(平成15年頃)の歴代墓
町史写真キャプションは
天正寛永・万治(15世紀末~17世紀半ば)などの年号が見える広岡満覚寺歴代墓地」
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帰依した二人の禅僧(『蓮如さん 門徒が語る蓮如伝承集成』)

1988年 企画・編集加能民俗の会、橋本確文堂企画出版室刊

鳳至郡門前町広岡門前町には曹洞宗大本山総持寺があり、禅宗がとても盛んであった。
広岡にある満覚寺は、もと総持寺の末寺で大覚寺といい、住職の月峰は源頼政の子孫で、禅宗の学者としても知られていた。
総持寺能登の櫛比荘(現門前町)を中心に全国に信徒をふやしている時、北陸に真宗を広めようと、蓮如さんが吉崎にきて布教をしているという。
月峰は蓮如さんのことを心よく思わず、吉崎へ出かけていって蓮如さんに会い、その考えの問違いを問いただそうとした。
月峰は意気ごんで、いろいろ禅宗の考えと違う納得できないことを次々と質問した。
すると、蓮如さんはひとつひとつていねいに答えてくれる。
月峰は、ついにその人徳に感化されてしまった。そして、弟子となることを誓い、その教えを文として書いてほしいと頼んだ。
蓮如さんもこころよく引き受けて与えたのが、御文の二帖目第九通だという。
こうして、月峰は文明六年(一四七四)三月、了念という名を与えられて真宗に改宗し.大覚院の寺号を満覚寺と改めた。
そして、それまでの仏像を総持寺へ返して、みずから阿弥陀仏を刻んで安置したという。
総持寺の近くの鬼屋にある明教寺も、もとは禅宗の寺院であった。
開基の円智は、禅宗の修行と布教に励んでいた。
ところが、蓮如さんが越前の吉崎で盛んに真宗を広めているのを聞いた円智は、吉崎へ行って問答で蓮如さんを負かしてやろうと考え、意気込んで出かけていった。
はじめは一日の滞在で帰るつもりであったが、問答を続ける間に蓮如さんの魅力にとりつかれて、数週問も滞在してしまった。
そして、ついに蓮如さんに帰依して、蓮如上人画像一幅を授けられて帰った。
その後、円智は総持寺を離れ、真宗に改宗したという。
広陵顕恵・諸岡昭円談)

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御文 第2帖目第9通

9 そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらえるそのこころはいかんぞなれば、それ、弥陀仏のちかいましますようは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなるつみふかき機なりとも、すくいたまわんといえる大願なり。しかれば、一心一向というは、阿弥陀仏において二仏をならべざるこころなり。
このゆえに、人間においてもまず主をばひとりならではたのまぬ道理なり。
されば外典のことばにいわく、「忠臣は二君につかえず。貞女は二夫をならべず」といえり。
阿弥陀如来は、三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまわざるべきや。
このいわれをもってよくよくこころうべし。
さて、南無阿弥陀仏といえる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆえに、なにの不足ありてか諸行諸善にこころをとどむべきや。
すでに南無阿弥陀仏といえる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。これによりて、その阿弥陀如来をば、なにとたのみなにと信じて、かの極楽往生をとぐべきぞなれば、なにのようもなく、ただわが身は極悪深重のあさましきものなれば、地獄ならではおもむくべきかたもなき身なるを、かたじけなくも弥陀如来ひとり、たすけんという誓願をおこしたまえりと、ふかく信じて、一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよおされて、仏智より他力の信心をあたえたまうがゆえに、仏心と凡心とひとつになるところをさして、信心獲得の行者とはいうなり、このうえには、ただねてもおきても、へだてなく念仏をとなえて、大悲弘誓の御恩をふかく報謝すべきばかりなりとこころうべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。文明六歳三月十七日書之

※『御文来意鈔』慧忍著のいわれには、別話が載る。

蓮如上人と伝承』の広岡・鬼屋

文明六年(一四七四)それから二年後には、奥能登門前総持寺の禅僧仲間においても、上人の教えが評判となっていた。
蓮如、何するものぞ!」の思いを抱いて、広岡大覚寺月峰・鬼屋円智の両学僧が、吉崎へ論争に出向いた。上人の教えに非のあろうはずもなく、その上、多くの人々を魅了してきた上人の人柄である。
二人の禅僧は、話込めば込むほど、真宗の教えと上人に魅かれ、円智などは、数週間も吉崎に逗留してしまったという。
両者は真宗大谷派満覚寺・明敬寺(いずれも鳳至郡門前町)の開基となるが、この時、二人に与えられた御文が第二帖目第九通といわれている。

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蓮如上人と伝承』西山郷史著、真宗大谷派金沢別院刊、1998年初版、20012刷
上記の文は、五、女人と御文、p28。


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広岡満覚寺から門前町中心地を望む。真下に總持寺、門前高校が見える。
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