六部データー、ふるさとふれ合い能登校講座「能登文化の広がり」6月20日

f:id:umiyamabusi:20160621191724j:image
石川県『中島町史』資料編上巻(平成7年3月刊)
中島町の民俗p837
七尾の六部(元地)
金沢米泉・六十六部回国塔(地蔵菩薩)
20日能登ふれ合い講座の折、石仏学会の方にお会いして、六部についてほんの少し話し合った。
中島町史で書いた記憶があったので、その旨をお話ししたのだが、バタバタと講座の日を迎え、
25日の「土徳流離」の打ち合わせ・準備や、空海伝説の伝説地地図落とし、
地消地産情報誌「能登」の原稿、27日の同朋会推進員会の案内文作りなどを抱えていたのと、
帰って手紙のやりとりなどを見れば連絡はすぐ付くと思ったのが甘かった。

今日21日は宮犬に調査に入られるとのこと。
上記のすべきことが今朝9時までに出来てしまい、そうなると、かねてから気にしていた宮犬の庚申塔を一緒に探したくてたまらなくなった、が、手紙などは資料の山に埋もれていて探しだせず連絡のしようがない。


思い当たる地を案内できないのなら、せめて「中島町史」の該当場所をと、ここにデーターとしてお付けした。ご利用いただきたい。
町史のこの文は私が書いたのだが、「寄進札」をいつ見たのか(あるいは何で知ったのか)思い出せない。
中島町史は、教員を辞め、父が亡くなり、他の民俗執筆陣がことごとく事情があって原稿を書けなくなった時の仕事だった。


講座に戻ると、この講座が始まったころから担当の元先生方を知っていたこともあり、連続5回の講義や、バスでの史跡巡りなどを行い、この3月まで途切れることなく担当の先生方と親しくつき合わせていただいた。
今年になって、担当者が全て代わり、昨日は知らない場で話しているような気分でいたのだが、今回のお約束をさせていただいた私にとっての最後の担当者たちは、そろって講座に顔を出してくださった。そのメンバーのうち2人が、「中島町史」を一緒にやったメンバーだったのである。
彼らは近世、私は民俗。余裕のあったころで定期的に全体会がもたれた。そのメンバーの一人とは、ことあるごとに「北上夜曲」を歌った。
それから20年、中島町はなくなり、それぞれがそれぞれの道を歩み(といっても、3人とも校長さんだがー1人は飯田高校百周年でおせわになったー)、数年前にこの場で再会した。
今、寄り合って総合的な調査をすることはまずない。
その懐かしいメンバーが3月に去り、私は、その前に決まっていた約束を、誰に知らせることも特にせず、昨日果たした。
今までだったら、NさんやKさんが講座を聞きに来られたはずだとの思いと、慣れた会場で語りかける相手が見つけられない、間の持ち方がたまらない。
今日は夏至
夏至の前の日が、わたしにとっての大きな節目となった。

今後は、知りたい人がいるなら、長年色々調べたエリアを案内したり、文献を知らせたりする道を歩むのことになるのだろうなぁ、と漠然と思っていた、
そのことが、すぐに、庚申塔、六部という形で現れたのである。
そして、力になれなかった…。
それで、あせっている。

能登文化の広がり

能登校講座
レジメ4-1
レジメ4-2