仏御前の里ー小松市原町ー

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平家物語』巻一「祇王
祇王
「もえ出るも枯るゝもおなじ野辺の草いづれか秋にあはではつべき」
の今様で舞って清盛の元を去り、
「仏はむかしはぼんぶ(凡夫)なり我等も終(つい)には仏なり いづれも仏性具せる身をへだつるのみこそかなしけれ」
の舞で、自らを追い出すことになった仏御前の前で舞い、あまりの屈辱をこれ以上は重ねることが出来ないと「ただ身を投げん」と思う。
妹の祇女も、「我も共に身を投げん」と言ったとき、
母トジが「二人のむすめ共にをくれなん後、年老をとろえたる母、命いきてもなににかはせむなれば、我もともに身をなげむとおもふなり。
いまだ死期も来らぬおやに身をなげさせん事、五逆罪にやあらんずらむ。…」
と「さめざめとかきくど」いたことによって、三人は尼になり嵯峨野で庵を結んで念仏の日々を送ることになる。
ここに用いられている「五逆罪」が、身近な問題として迫ってくる。
祇王・祇女、仏御前を語るとき、「五逆罪」のキーは外すことが出来ないと思うのだが、
このことを問題にしている例は、聞いたことがない(わずかな見聞だけど)。
7月13日(月)