志雄(宝達清水町)原~散田金谷古墳ー宝達修験の一原点を訪ねるー

志雄・羽咋地区の住職研修第二回を5月12日に行った。
さまざまな観点からの藩政期の年表を作成し、その講義を2時間余。
それが始まる前に、台風模様だったけど、2組エリアの最奥地に行ってこようと思い車を走らせた。
帰ってから、羽咋郡誌などを見ると、能登最高峰の宝達山系にあって、この原集落あたりが、古い伝承を有している。
すぐに思い当たった。都の艮・比叡山と同じく、原地域は宝達山の艮にあたるのだ。
都ー白山ー宝達ー気多ー能登島八ヶ崎ー珠洲鉢ヶ崎ー須須神社の東北ラインの一角を原地区が占めている。
真宗以前の役の小角の話や、空海伝説があっても何ら不思議ではないことになる。
原への入り口にある新宮温泉が薬師湯だったのもうなづけるところ…。
かつて「能登の薬師信仰」(民衆宗教叢書『薬師信仰』)を書いたことあるが、補足版を出さなくてはならない、と思わせるエリアだった。


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原地区赤倉山浄蓮寺ツツジ

赤倉山浄蓮寺さん

浮蓮寺。字原にあり、真宗大谷派に属し、赤倉山と号す。
 本寺は往古善勝寺といひ、真言宗にして原赤倉山三十八坊の一なりき。その寺地今に明瞭なり。
 明応六年(1497)住職栄了、本願寺蓮如に帰依し、終に改宗して寺号を浄蓮寺と改め、赤倉山より出でて、押水末森山下なる今の敷浪地内に転住す。其の地現に浮蓮寺山の名を存す。
 天正年間佐々成政末森城を攻めし時、火を放ちしを以て堂字悉く焼失す。
 後ち原地内小字原出に転住せしに十五世栄観の時失火し、旧記等を失へり。依りて延享三年(1744)栄観は今の地に移転して堂宇を新築す。(『石川県羽咋郡誌』大正6年刊より)
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同寺境内地
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同寺境内、町指定しだれ桜
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荒魂社、浄蓮寺

荒魂社

字原に在り、迦具土命を祀る。もと立石神社と号て規模宏大なうき。後其、地を原大御前といふ、元和年中今の地に遷る。(郡誌)
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うつぎ
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新宮川谷
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藤、うつぎ
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新宮川ため池=新宮川ダム
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新宮薬師神社の猫
近くに赤倉神社

新宮赤倉神社

新宮赤倉社は新宮に在り。素戔鳴命を祀る。
 社伝に拠るに往古素戔鳴命、出雲国より是地に至りて、妖異を蠲(けん=なぐさめ)き民衆を安んじ、後ち其神霊を留めて還る。本社の在るは実に此に基づくといふ。
 本社古は赤倉山に鎮座す。赤倉山は一に原御前山と称ふや、役(えんの)行者かつて此に参籠せり。
 天長元年(824)大に旱す。會々僧空海登山して雨を所り、大雨暴に至りしかば、奏して一寺を建て赤蔵山臨永寺と号し、七堂伽藍悉ぐ備はりて、四十八の坊舎甍を列ぬ。盛に祀事を修めき。
 応永年中本国守護畠山氏本社を累世の祈願所となす。天正十二年佐々成政来りて本社に宿陣し、其敗るゝや火を縦ちしかば、一山焼夷して社僧悉く散せり。依りて前田利家は命じて社殿を造らしめしが、明治維新の際に至りて今の社に改めたり。
〔加越能式内等旧社記〕
新宮赤倉神社、志雄荘新宮村鎮座。旧伝云、往昔赤倉山神霊影向、故建立称新宮赤倉権現。(郡誌)
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東峯山西福寺(浄土真宗本願寺派)さん。
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志雄・桜の里古墳公園
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飛龍山成正寺さん(大谷派)

国指定史跡 散田金谷古墳 (さんでんかなやこふん)

家形石棺をもつ円墳
 羽咋郡宝達志水町の散田金谷古墳は、子浦川と向瀬川に挟まれた低台地上に立地しています。長径約21m、短径約18.5mの長円形の円墳です。横穴式石室は、玄室の長さ5.72m、奥壁幅2.65m、高さ2.76mで、花崗岩を用い構築されています。凝灰岩製の家形石棺(長さ2.3m、幅1.1m、高さ1.27m)が置かれていました。築造年代は6世紀第4四半期と推定されています。越中への交通路に面しており、被葬者は当時この地域を支配した族長であると考えられています。
 志雄谷と呼ばれる周辺地域は、能登でもっとも早くから古墳研究が行われた地域の一つで、その中でもこの古墳は、明治36(1903)年に最初の調査が行われ、鉄製の武具・馬具、耳環(金属製の耳飾)、須恵器などが見つかっています。これらの遺物の一部は、東京国立博物館と地元の成正寺に保管されています。古墳は昭和57(1982)年度に国史跡、また、家形石棺は昭和45(1970)年に県の有形文化財に指定されました。

臨永寺さん

字聖川にあり、真宗大谷派。元真言宗にして本郡南志雄村字原なる赤倉山大権現の別当職たり。
 往古素戔鳴命此の地に来り、妖異を退治して民意を安んじ給へり。後文武帝の御代大宝年中一社を建て、赤倉権現と称す。世人敬仰して原御前といへり。天長元年干魃甚し、会々弘法大師登山して雨を所りしに、大雨俄に至りしかば、即ち奏聞して一宇を建立し、妙覚寺と称す。七堂伽藍悉く備り、四十八の坊舎を統べ、代々赤倉権現の別当となりて大に祀事を営みしが、明応二年(1493)四月時の住信持釈慶鳳本願寺蓮如に帰依して弟子となり、家光山乗慶坊の名を賜ひて新宮に移る。天正十二年、佐々成政末森城を攻略せんとして此地に来りしが、戦敗るゝに及んで火を放ちしかば、一山悉く烏有に帰し、衆僧四散す。乗慶坊亦兵焚に罹りて今の地に移れり。
 寛永十六年八月第三世の往持釈慶永の時、本願寺第十三世宣如より寺号を臨永寺と賜ひ、以て現今に至る。
 開基釈慶鳳、蓮如に帰依したるが故に、その滅後遺骨の分与を乞ひて崇敬し、後蓮如の廟を建て、例年四月二十三日より二十五日まで蓮如忌を営み、赤倉山時代より伝ふる諸種の宝物を展観せしむ。(郡誌)

能登教区御消息調査。

この調査の第一歩目が、聖川のお寺でだった。
昭和60年10月2日能登教務所で事前協議会を行い、翌61年6月14日3人(佐藤義裕、木越祐馨、私)の調査員が3カ所に別れて調査を行った。
この日、私は本泉寺支坊、浄蓮寺、臨永寺さんの調査を行っている。記憶は曖昧だが、臨永寺さんに集めた御消息を調べたような気がする。その後、写真は佐藤氏、文書読みは木越氏、特にこれといったものがない私は、ご住職の話相手と分担分けがなされ、私が平成3年に勤めを辞めたあとは、他の勤め人と土日に日を合わせることが難しくなり、それでも調査を続け、平成10年9月30日に第17巻目にあたる『歓喜光院殿御影御崇敬御消息集・補遺・歴代編年目録』、平成14年6月30日に論集『御消息について』を刊行し、1000通以上の能登教区御消息調査を終えたのである。
もう30年前からの出来事になる。
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