旅立ちの季節ー宇出津高校予選会、教職員演目ー

羽咋工業から宇出津高校に転任して1年目の終わり頃
生徒会担当の梶先生から頼まれたか、通勤列車が一緒だったこともあって出し合い話の中でだったか…
三年生を送る会ー予餞会ーに教職員全員での出し物をやろうということになり、その原案を考えた。
その時の資料が出てきた。
19年の教員生活で、印象に残る取り組みの1つだった。
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私の字ーガリ版ーである。

旅立ちの季節 郷愁の昨日~希望の明日

[語り]
暖かい愛につつまれ、あたりまえのように日々を過ごした幼かった頃。
花・緑・月・雪にはぐくまれて生きていることを、初めに教えてくれたのは、童謡であったかも知れません。
共に生きた幼い日々を想い起こし、今、共に四季を過ごした三カ年を想います。
私たちはそれを歌に託し、
あなた方へのささやかな贈りものにしようと考えました。


[ハミングー花かげ]そして語り〈春〉
〈語り〉ーバック、ギター伴奏

一篇の漢詩を贈りたい。
能州の雪、中林台を蔽い、内海の波凪(な)ぐ学窓の景。
君たちに餞(はなむけ)す、四季の詠歌を。
ひとたび門を出(い)づれば、同胞(はらから)無からん。
無からん…、アアー無からん、無からん
[能州雪蔽中林台 内海波凪学窓景
餞君達四季詠歌 一度出門無同胞(弟妹)]



♪ 十五夜お月さん見てたでしょう
  桜吹雪の花かげに 花嫁姿のお姉さま
  お別れ惜しんで 泣きました


[ハミング 月見草のうた]〈夏〉
〈語り〉ーバック、ギター伴奏

三度(みたび)星霜はめぐり、旅立つ君達に、はなむけの会を持つ時がやってきた。
瞳をあげえぬ今日の日が、確実にやってくることをおそれながらも、忙しさの中で、努めて忘れるように心がけてきた……。
今、私には、中国の詩人・宇武陵(うぶりょう)が作った
「花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ」のことばをかみしめる以外ー術(すべ)はないのであろうか……


♪思いでの丘、花の丘、きょうも一人で月の海 
 じっとながめる足もとに
ほのかに匂う月見草


[ハミング 里の秋]〈秋〉
〈語り〉ーバック、ギター伴奏

宇出津に赴任し 登りつめた坂の上に校舎はあった。
大地を踏みしめ歩く足の感覚が、坂の勾配に親しみはじめる頃
海原を背景にしたまなびやが、自分の一部になりつつあることを、
私は確実に感じとっていた。
そしてー坂道が生活の一部になってしまった頃ーいさり火を見たー。
凛然(りんぜん)たる光は拡がりー闇に消えた。


♪しずかなしずかな里の秋 おせどに木の実がおちる夜は
 ああ 母さんとただ二人 くりの実にてます いろりばた


[ハミング 母さんの歌]〈冬〉
〈語り〉ーバック、ギター伴奏

凍(い)てつく道に、朝の冷気はさわやかだった。
頬を紅潮させ ほほえむ君たちもさわやかだった。
ー肌さす寒風の中で、時折訪れる薄日の中で、
日々は過ぎ去っていく。
その頃、何事にもくじけぬ明日への祈りが、君たちの中に芽生えていることを
私は感じた。


♪かあさんのあかぎれいたい なまみそをすりこむ 根雪が溶けりゃ
 もうすぐ春だで 畑が待ってるよ
 小川のせせらぎが聞こえる 懐かしさがしみとおる。


[ハミング 四季の歌]
〈語り〉

さあ!いつまでも感傷にふけってはいられないょ!
若者らしく 四季と語り 友と語り ふりかえらず 
明日に向かって生きていこう!


♪ 春 夏 秋 冬 愛して 僕らは生きていく
  夏の太陽 冬の木枯らし 
  友と歩む道 


♪(1) 友よ 淋しいとき あなたにあいたい
 …

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当時の2人。
今、ここはどうなっているかー当時の宇高グランド近くで…
北辰祭の準備の様子でも見ていたのかも知れない。

最初の語りは覚えていないが、最後のさー!からの語りは、新任の元気のいい体育教師(女性)にお願いした。
4クラスあって、それぞれに担任が語り、他の教職員はハミング
ギター伴奏は、私が行った。
大事な所だが、キーは4曲とも同じにして、流れるようにいけるよう考えた。
私の家で、ギターを弾きながら、梶先生と案を考え、それをプリントし、放課後、何度か全教職員で練習したはずである。
一組の担任は漢詩が相応しい。三組は一緒に赴任した静岡からおいでた先生ー
この方と漁り火とを組み合わせた印象が強く残っていて、
昭和51年3月卒業生に贈った出来事だったことが結びついた。
その時、私は1年生担任だった。


全教職員が体育館ステージに並ぶ…それだけでも興味津々
そこにナレーターが入る。


すてきな先生方が多かったので、誰だったか出てこないのが情けないが
「…ささやかな贈り物にしようと考えました。」
に続いて、真ん中横のいすに腰掛けた私が、Emの三拍子を刻み始めると同時に
一斉にハミングが始まり、それをバックに担任がおもむろに「一篇の…」
と始めたのだから


今、思っても会場がシーンとなり、空気が変わったのを肌で思い出す。
昭和51年、38年前の出来事だ。


一緒に考えた梶先生は、「凜」という言葉を入れたいとおっしゃり、秋の語り中にいさり火(漁火)に「凛然」たる光、を入れた。
その後、あちこちで「凜」を見るようになっていくが、その字にあう度に、この時のことを思い出す。
ちなみに「漁火」は宇高生徒会機関誌の題名である。
また、四季の歌の歌詞は、四季を1つにまとまるには…と2人で
考えたはずだ。


最後に、さぁーといった先生が、上手く言えたと大喜びをしていたが


この企画は翌年で終わってしまった。
伴奏や語り全体の中で、どのように位置づけてやるかが大事なのに、
人の書いた文を読み上げるのは、担任としてどうか、自分の言葉で語るべきだと主張した人がいたらしい…。
開けてみると、とうとうと語り出し、伴奏がやたらと長くなって、
生徒はだんだん興ざめ、最後はざわつき状態で、
白けるという言葉は当時あったかどうか、そういう雰囲気のままで終わった。


その次の年が、3年間担任した子たちを送る年だったのに…
どのように送ったか…
ブラス部が上手だったので、ブラスをバックにして「青春時代」を歌っている写真がある。
弾き語りをしている写真がある。
そのようなことで別れていったと思うのだが
四季の童謡を織り込んだ、この出し物は、何十年経った今でも出色のまとまり
出来映えだったと、思っている。


そして、
月、西方の木=栗、明日ありとの桜、光明…
今、頂かせていただいている世界が全てここに始まっている。

漁り火を見ながら歩いた高校の坂にある校歌碑