彼岸会の御文

真偽不詳(蓮如上人作)ながら「彼岸会の御文」には、重要なことが書かれている。
そういう御文があります、というだけではなく、
今日の法話の中で、内容についても、少し説明しようと調べてみた。
【本文】「彼岸会の御文」(『蓮如上人遺文』p536、稲葉昌丸師編)
 そもそも此(この)吉崎(よしさき)の一宇(いちう)にして、彼岸(ひがん)會(え)と申(もう)す事(こと)は、春秋(しゅんじゅう)の両時(りょうじ)において、天正(てんしょう)時正(じしょう)と申して、昼夜の長短(ちょうたん)なくして、暑からず寒からず、其(その)日、いでゝ正等(せいとう)にして直(ただち)に西に没し、人民の往還(おうかん)たやすく、佛法(ぶっぽう)修行(しゅぎょう)のよき節(せつ)なるによりて、其(その)かみ佛(ぶつ)在世(ざいせ)より末代(まつだい)の今にいたりて、これを行(おこな)ふ也(なり)。

此(この)時は、人の心ゆたかなるによりて、信(しん)行(ぎょう)増上(ぞうじょう)し易(やす)し。
されば、冬は秋の余り、夏は春のすへなれば、夏冬は艱苦(かんく)にして、信心修行もをろそかになりやすきに、この両時(りょうじ)の初めこそ、信行相続して、未(み)安心(あんじん)の人は宿善(しゅくぜん)の花も開け、信心開発(かいほつ)の人は、佛果(ぶつか)圓満(えんまん)のさとりをもうるにより、都(すべ)て佛法(ぶっぽう)信仰の人は、参詣(さんけい)の足手を運び法會(ほうえ)に出座(しゅつざ)するものなり。
しかれば、彼岸會(ひがんえ)といへることは、七日の内中日は、日輪(にちりん)西方(さいほう)にかたぶき、かの浄土の東門(とうもん)に入りたまふ。
此(この)ゆへに無爲(むい)涅槃(ねはん)の極樂(ごくらく)を彼岸(ひがん)とはいへり。

今娑婆(しゃば)を此岸(しがん)といひて、生死海(しょうじかい)有爲(うい)の迷(まよひ)のきしなるにより、佛願(ぶつがん)正智(しょうち)の弘誓(ぐぜい)の舟に乗(じょう)じ、さとりのかのきしに至りうるの念佛なれば、経には

①「一切(いっさい)善本(ぜんぼん)皆度(かいど)彼岸(ひがん)」

と説き、又は

②「究竟(くきょう)一乗(いちじょう)至于(しう)彼岸(ひがん)」

とものたまへり。


 故(ゆえ)に當流(とうりゅう)祖師(そし)聖人(しょうにん)の御(ご)法流(ほうりゅう)には、まづ平生(へいぜい)業成(ごうじょう)の御勧化(ごかんげ)入(にゅう)正定聚(しょうじょうじゅ)の益(やく)あれば、あながちに此(この)両時(りょうじ)にはかぎらず、つねに佛恩(ぶっとん)を信知(しんち)するといへども未(み)安心(あんじん)の人はたゞ名聞(みょうもん)・人目(ひとめ)ばかりの心にして法座にのぞみたまはゞ信心も等閑(なおざり)なるべし。
 法理も白地にならずして、たとへば

③珠(たま)を淵になぐるが如く、

又は

④うへきの根なきに似たり。

 これねがはくは皆々、名聞(みょうもん)人目(ひとめ)の心をすてゝ、信心報謝(ほうしゃ)の念をはこぶべきなり。
 その肝要(かんよう)と申すは、弥陀如來をたのみ、今度(こんど)の我等(われら)が一大事の、後生(ごしょう)たすけたまへと、一筋に信じ雑行(ぞうぎょう)雑修(ざっしゅ)をはなれたる、一心專念(せんねん)の人は、十人も百人も、のこらず極樂に往生すべきことをたふとみ、その嬉さには、ねてもさめても南無阿彌陀佛を申して、足手をはこび信心相続あらば、ひとへに信行両益(りょうやく)の人と云(いう)べし。

 これすなはち十即(そく)十生(しょう)百即百生の人数たるべきものなり。
これぞまことに彼岸會(ひがんえ)参詣(さんけい)といふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ
   右於吉崎一宇令建立執行彼岸會者也。 (右、吉崎に於いて、一宇建立せしめ、執行 彼岸会の者なり。)
           文明五年八月十四(十三)日 蓮如 五十九歳判 」
【参照、註】
※文明五年 一四七三年

真宗聖典p6『仏説無量寿経』上 善本 善の根本のもの=名号 
真宗聖典p55『仏説無量寿経』下 一乗 誓願一仏乗=本願名号
③参照『徒然草』岩波新古典文学大系
第三十八段 名利
 名利に使はれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
 財多ければ、身を守るにまどし。害を買ひ、煩いを招く中だちなり。身の後には、金をして北斗を支ふとも、人のためにぞわづらはるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、又あぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらむ人は、うたて、愚かにぞ見るべき。金は山に捨て、

玉は淵に投ぐべし。

利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。
埋もれぬ名を長き世に残さんこそあらまほしかるべきに、位も高く、やんごとなきをしも、勝たる人とやいふべき。愚かにつたなき人も、家に生れ、時に遇へば、高き位に至り、奢りを極むるもあり。いみじかりし賢人、聖人も、身づから賤しき位にをり、時に遇はずしてやみぬる、又多し。ひとへに高き官(つかさ)位を望むも、次に愚かなり。
 智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉れも残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは、人の聞きをよろこぶなり。褒(ほ)むる人、譏(そし)る人、共に世にとどまらず。伝へ聞かん人、またまたすみやかに去るべし。
 誰をか恥ぢ、誰にか知られんことをか願はん。誉れはまた譏りの本なり。身の後(のち)の名、残りて、さらに益なし。これを願ふも、次に愚かなり。
 但し、しひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出でては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可と不可は一条なり。いかなるをか善といふ。
 名を思ふは、人の聞きを喜ぶ也。褒むる人、譏る人、ともに世にとどまらず、伝へ聞かむ人、またまたすみやかに去るべし。誰を恥ぢ、誰に知られんことを願はん。
 身の後の名、残りてさらに益なし。是を願ふも次に愚かなり。
 まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。もとより、賢愚・得失の境にをらざればなり。
 迷ひの心をもちて名利の要を求むるに、かくの如し。万事は皆非なり。
 言ふに足らず、願ふに足らず。
「玉は淵に投ぐべし」の原典は『文選』一、東部賦。


④樹の根無きがごとし
人生精進せざれば 喩えば樹の根無きがごとし
『往生礼讃』日没讃 無常偈日中偈云  往生礼讃偈 一巻 沙門善導集記
浄土真宗聖典 七祖篇』p23、p754
日中偈云


人生不精進 

喩若樹無根

採華置日中 能得幾時鮮
人命亦如是 無常須臾間 勤諸行道衆 勤修乃至真


人生まれて精進せずは、喩へば樹(じゅ)に根無きが如し。
華を取りて日中に置くに、能く幾ばくの時か鮮やかなることを得む。
人の命も亦是くのごとし。無常は須臾(しゅゆ)の間(あひだ)なり。
諸々の行道の衆(しゅ)を勧む。勤修して乃ち真に至れ。