『おもいで』

ある文を書き進めようとして、子供を失った親の気持ちに、想像を巡らすことがあった。
20代の子を病で亡くし、久しぶりに子と川の字になって寝ながら、こんなに若くしてこの世を去る体しかあげることが出来なくてごめんね…と詫びる、母の思い・言葉が書かれた文を思い出した。



私の場合、20年近くの教員生活で、2度ほど高校生を送ったことがある。
教え子が初めて亡くなったのは、37歳の時だった。
マネージャーをしていた、笑顔のやさしい子だった。

あの時、ああ!これだけしかしてあげられなかったのか…!
と、痛切に思った記憶がある。



30年近く前に書いた文を、探した。
それは、同級生たちが、一緒に卒業しようね、と出した文集『おもいで』にあった。
本名をイニシャルのM・Iさんに置き換えて、載せる。



Iさんに関わる想い出を書こうと頭を巡らしてみた。
時は1月10日(昭和63年)、夜10時。2年続きの穏やかな冬といわれた穏やかさも昨日まで。
今、激しい風が窓を震わせ、雪が窓を叩く。
合間を縫うように飲み屋から、かすかにカラオケの音が聞こえてくる。
真冬に向かう中で、部屋の雰囲気もスサマジイ。
筆を進めようとすると、彼女の様々な姿が目交(まなかい)にちらつく。
いくつかの印象をまとめて、3つにするところまでは何とか辿り着いた。
1つは、サッカー部のマネージャーをしていてグラウンドに向かって立っている姿。
もう1つは1度復学したそのあとだと思うのだが、偶然汽車で一緒になり、小木駅で降りた彼女が駅舎のところで見送ってくれた姿。
そして、1昨年(昭和61年)の12月9日、通夜に訪れた折、まだ納棺前で布団に横たわっていた彼女の姿である。
前の2つは、内浦の海を見下すグラウンドや、哀愁を誘う駅の後景の中で、
あのちょっとはにかんだような清(すが)しい彼女の笑顔がついてまわり、さわやかすぎて切なくなる。
書くために印象を鮮明にしようとする度、笑顔が浮かんできて、どうしようもない。
たとえてみれば、初恋の頃によくあるように、
憧れてもどうにもならない人を、忘れようとすると最も素敵な姿が浮かんできてしまうという状況に似ている。
この場合はひたすら読書にでも専念するか、ギターをかきならすか、面影を追いやることにこれ努めることになるのだが、今は逆のケ~スである。
ともあれ、1シーンに留まっていると、周りの風景やらちょっとしたシグサが次々に浮かんできて、つい涙しがちになるので、そろそろまずいと思う頃に、3つのシーンを回転させることになる。
しきりそうこうしているうちに、今日は書けそうにないとの思いに至った。
気力の萎(な)えでしかないはずだが、得意の他のせい、ー今日は気象状況が悪すぎるーにして、穏やかな昼に改めて書こう。と思う。


さて、2日。
私が野球蔀の顧問からサッカー部の顧問になった年、彼女はマネージャーだった。
あの頃、サッカー部のマネージャーは確か7名で、数も多く、また賑やかな生徒ばかりだった。
高校生になって初めてサッカーを始めるハンディもあり、部の成績はよくなかったが、応援ではどこにも負けないと言っていただけあって、かなり騒々しかった。
その中で、Iさんは落着いていて、趣があった。
グラウンドを吹き抜ける風に実にピッタリ合うとの印象がある。
浮き玉がファーと浮いた時、あるいはペナルティーゴールを狙う前の一瞬の静寂。そんな時と彼女はよく似合った。
多くのマネージャーがいた中で彼女の印象が強く残っているのは、彼女が亡くなった、というせいばかりではない。

そのうち彼女は入院した。高校生が入院すると成長期のバランスの崩れもあって、往々にして長期入院になることがある。
そんな例を時折耳にしていたので、彼女の入院についても軽い気持ちでいた。
意外と長びいているナァと思い出した頃、金沢へ出掛けたついでに医科大付属病院へ見舞いに寄った。受付けに面会の旨を伝え、Iさんの名前を調べてもらったが、入院名簿に載っていないという。退院して何日かすると名簿に記載していないので退院しているのでは…という話だった。
確かに彼女はその時既に退院して家にいたのである。

汽車で会ったのは、それから間もなくのことで、4月から復学できるとか、どんな病気だったのか、など、2言3言、言葉を交わし、見舞にいった病院は違う病院だったということも、汽車の中の会話でわかったのだった。
そして、それまでの彼女らしく、律義に小木駅で、ほほえみながら列車がホームを離れるのを見送ってくれた、その姿が、私にとって、彼女の今生での見納めとなったのである。

彼女の病が不治のものであることを知っていたら、次は間違えることなく見舞いに行ったであろう。それが心残りではあるが、たとえ見舞いに行っていたとしても、それは自分にとってのささやかな慰めにしかならない。
むしろ心残りがあって、Iさんとの会話があることに、感謝しなければならないのだろう。
Iさんが亡くなり、今晩お通夜が営まれる、と知らされたのは担任のH先生からであった。
彼は彼女が助からないことを、数ヶ月前から知っていたらしい。
あとで、生徒の中でも何人かはすでに知っていたという話しを聞いて、
比較的身近にいたつもりでありながら、知らずにいたのは自分ぐらいだったのかも知れないと思った。

お通夜には、予定より早く着いたので、Mさんはまだ布団の中にいた。
「ああ、Iやなァ!」と、それ以上は感慨の湧きようのない出あいだった。
棺が用意され、男手が足りなくて、頭から肩に手を添え、棺に入れてあげた。
その時、軽いとか、肉体の重みに対する思いはあったのだろうが、今は覚えていない。
ただ、
Iさんにしてやれたことは…これだけだった、との思いが胸をよぎった。


その頃から次々と同級生たちが集まってきた。
「M!、どーして待っていてくれなんだがア」と泣きじゃくりながら、枕元に花を添える姿に、出来るだけのめり込まないでおこうと、かたくなに構えている自分があった。


自分より年上の人の死は意外と冷静に受止められる。自分がその人の年齢になった時、彼はこの年に何を考えていたのだろうと思う。

その点、年下の人の死はたまらない。
身近でたまらないのを学生時代に何度か経験した。

結構仲良かった後輩の女の子が亡くなった時、何冊か貸してあった本が、片身分けで色んな人のところに回っているという話を聞きながら、通夜も葬儀にもいかないで、友と下宿でその子をしのんだ。
また、「僕らのところは土葬をやってる」との話を聞かせてくれた後輩に、今度つれていってくれと頼んでいたその本人が亡くなり、野辺送りの時「あいつは自分で土葬を西山さんに見せようとしたんかネ」
とフトもらした彼の友の言葉を、
秋風に流してしまいたいと思ったこともあった。

これらは、それなりにつらかったが、年も近く、彼等の人生のよどみらしきものも少しは見えていた。

Iさんの場合は、美しすぎるまま、亡くなったのだろう。
七才までに亡くなった子は人間ではない。天の預かりっ子としてあの世へ返すのだ、という話を各地で聞くが、
今の私には、彼女は、まさにそのようにして逝ったとしか思えない。

先に行っている極楽で、あとでそちらへ行く機会があったなら
「ナーニ、先生!、年いってェ」と声をかけてもらい、そのあと、彼女亡きあとの故郷の話に花を咲せたい。
と願うのみである。


この前、久し振りに彼女の家の前を車で通った…。



ホームで、ズーッと見送ってくれた時、小雨模様だった。窓を開け、体に触るからもういきな…!と、言ったのに、(いいです、と言ったかどうか?)笑顔で、姿が見えなくなるまでホームに立っていた。
それが、この世で彼女を見た最後となった。


試合にでることはなかったが、いつも最後まで練習を続けていた部員がいた。
文集に載る彼の歌の一部。


「「さいなら」と その一言がいいたくて 彼女を待った十七の春」
「放課後に君を見かけた洗濯場 洗い流して 汗 泥 涙」
「思いきりはずしたボール拾う君 「ありがとう」の一言 照れた」


「三限後 初めて知った彼女の死 ウソヤ ウソヤロ ナンデネンヤ」


「仕事終え ネクタイほどき思い出す 今日は彼女の一周忌」


今、この子らは44歳。
私が教員を辞めた年齢になっている…。