阿尾城主菊池家子孫ー友末家、氷見と珠洲内浦ー

25日(金)、偶然としか言いようがないのだが、
同じ日に、お二人から野々江町(旧鹿野村)菊地家(友末六右衛門)と親戚だと聞いた。
お一人は若山町経念の吉木秀充先生で小学校時代の恩師。86才におなりになるという。
珠洲若山を知る会の中心メンバーである。
『伝説とロマンの里』執筆の折、「すずろ物語」にお書きになった先生の緒論を参考にさせてもらっており
遅ればせながら同書をお届けしたところ、わざわざお礼にお越しになられた。
そこでの様々の話しの中で、菊池家と親戚という話が出た。
藩政期に友末六右衛門(『伝説とロマンの里』所収)あるいは六左右衞門を名乗っておりながら、
明治になって菊地姓を名乗ったことに対して、疑問には思っていたのだが
菊地家は今は当地になく、疑問は疑問のままになっていた。
吉木先生は、阿尾城主家の子孫だと聞いている、とのことだった。
氷解。

そういう動きがあったのだ。
三盃本家・助兵衛家が三盃を名乗らず、先祖が伊予出身だからと伊予家を名乗ったように、
豪農友末家は、名主名以上に出自という阿尾城主家・菊池(菊地)を姓にしたのだった。

上戸の桜井神主さんも親戚だとおっしゃっていた。

吉木先生には、
これまで若山村は存在しなかった、と言われていたが、
藩政期初期に「若山村」を記した文書(篠島家文書)があることに気づいたので
偶然とってあった、コピーをお渡しした。
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[若山村が載る『加賀藩人持組篠島家文書』]


先生がお帰りになって、まもなく
桜井重行宮司珠洲市文化財保護審議会会長職務代理)から電話が入った。
菊地蘭蔵が著した「能登誌」の草稿があるとのことだった。
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[菊地蘭蔵が載る『ふるさとの人物』明治百年記念、昭和43年珠洲市刊]
そして、菊地家と親戚ともおっしゃったので、
先ほど、吉木先生からそのことをお聞きしたところですと伝えると
驚いておられたが、お二人が話し合われたかのように、
今日の一時期、友末・菊地家の話しになった。

30年以上前、能登国三十三観音の調査を始めてまもなく、友末六右衛門の御詠歌額にであい、
あちこちで、書いたり、話しもしてきたが、遠い昔に、
珠洲とは縁の無くなった家だと思っていた。
それが、かなり身近な方々を通して急に話題に上ったのである。


学生時代の先輩で高岡市在住の菊池武さん、
一時期正月に講義に出向いた、高岡教区第七組氷見市中央町円照寺さんが菊池姓で、
いずれも阿尾城主家関係の子孫だと伝えられていた。


加賀藩初期の若山村の代官・篠島家は、氷見方面へ能登塩の物流に力を注いだ人でもある。
天正年間に飯田沖から揚がった氷見市北大町鳳谷院(曹洞宗如意輪観音像(元禄二年・1689・厨子裏朱漆銘)も存在している。


時空を超えて、氷見が急に身近になった。