揚浜式製塩普及啓発プロジェクト調査研究会

昨日22日(水)、タイトルの会の調査打ち合わせを開いた。
その時、用意した資料36枚中の1枚(合わせて1枚)。
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塩田資料写真のPDF
これは、消えていったものを知り、記録しておくことの必要を知る目的で作成。
左の2番目の写真(奥能登の塩田に用いられた塩釜:1990年平成2年8月宮城県塩竃神社で撮影)は22年前の写真だが、今もあるだろうと勝手に推測。
右上の山車(だし)の写真、次の角花家の塩釜はあるということで、
それ以外は現在、その場所にないか、どうなっているかわからないもの。
左上。表に出ることのなかった記念品。
3・4枚目と中の行1枚目。200年11月に閉鎖された真浦観光センター。
2007年には塩釜と砂取節歌碑があったが、現在は更地になっていて、これらもどこへ行ったのか分からない。
2~4枚目。2002年・平成14年に閉鎖された「喜兵衛ドン」にあった釜屋。
最後の写真も、現在、この地から移っている。

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塩田関係、句碑・記念碑など写真のPDF
こちらのページは、誰でもが見ることの出来る塩田文化の広がりを主として取り上げた。
ただし、右2枚目の銅像は戦時中に供出し、台座は昨年取り払われた。
その跡地に建物が建つとのことだから、近いうちに忘れられるのだろう。
この橋元昂氏、次の再興碑の藻寄行蔵氏は、明治期に塩田を再興するために大変な努力をなさった方々で、
珠洲市から国会議員になられたのも、このお二方のみである。


1枚目旧真浦観光センター近くにある水原秋桜子の句碑。日本最大級の句碑ということだ。
その他は
「冬涛に百日の唄あますなし (角川)源義」
「春寒しうたひておらは雇人だ 大野林火
「砂取節うたへば応ふ磯鶫(つぐみ)沢木欽一」
最後の写真は、塩田の砂の供給地・寄揚の浜。

経緯

長いタイトルの研究会立ち上がり、昨年暮れ、12月6日に第1回の会合がもたれた。
その時のメンバーは、
奥能登塩田村代表取締役
珠洲市史』『能都町史』『内浦町史』『輪島市史』の塩関係文書を一手に引き受けてこられた長山直治氏。
村おこし会社の代表取締役
揚浜塩田の県指定などに関わった私。
この4人が委員で、
オブザーバーに
珠洲焼資料館学芸員
珠洲商工会議所指導員。
事務長は、都市政策会社の人がなっておいでる。
産業分野の会のようで、
長山氏と西山は、オブザーバーなのだと思っていた。


それで、最初に調べたいこととして挙がっていたのは、
薪供給と塩田、塩釜の流通経路だというのだが、
それだったら長山さんが書いた市史資料をコピーするしかないし、
それに関して新たに何かをするとなれば、
ほぼ30年前に刊行された諸市史の史料・文書が
現在どうなっているのかを確かめるくらいしかない。


それで、外浦で調べたことのある塩倉跡を、内浦でも調べる必要があるのではないか、と提案したところ
それを行うことになった。


折々に内浦地区の古老に聞いてみるのだが、全く塩倉がでてこない。
そのうち、外浦は昭和34年まで塩田があったのに、内浦では昭和4年にすべての塩田が廃止されていたことに気づいた。
記憶に残っているはずがない。
なのに、内浦地域でも、時々、塩田をやったという人に出会う。
どうも戦時中に、自給自足の塩作りをやった時の話のようで、加賀藩時代に直接つながるものではない、
そんな、製塩風景だったようだ。


そんなことにも気づかされるなど、
色々ある中で、ようやく若手を中心とする強力メンバーが集まったので、
昨日22日、塩とも関係がある「おらっちゃの里山里海」
の一室をお借りし、
会議兼勉強会を持ったのである。
36枚分だけ、色んなことが見えてきたが、それらを書いている余裕がないので、
せめて、かつてあったものが急激に失われている写真と
塩田文化提唱の基礎となる写真を、
ここに載せた。