供出の歴史ー橋元勗像ー鹿野浜製塩【珠洲市】

戦時中、供出を免れた銅・金属製品では、宮崎寒雉義一製造の梵鐘が知られている。
珠洲市内にも、延宝7年(1679)、元禄14年(1701)製の2口、他に宝暦4年(1754)に寒雉直家の関わった梵鐘が供出を免れ、市指定文化財になっている。
これらの中で、もっとも古いのが、寛文5年(1665)製造の浄誓寺梵鐘
である。


一方、供出されたものの、鋳られることなく、そのまま残った作品がある。
親鸞聖人御得度の地・青蓮院から
長年かけて中能登町に落ち着いた
「明日有りと思ふこころのあださくら…」の碑、などはその代表だろう。
明日ありと…碑


時には、供出洩れもある。
酒井の半鐘(喚鐘と書いた)も、その一つ。


また、銅像が供出され、台座だけ残ったものがある。
学校にあった二宮金次郎像にそれが多かった。
私が小学生の頃、(確か学校の登り口右手に台座だけになっっていた金次郎像あとを見かね)
小木久三さんが金次郎像をご寄付なさった。
いつもお寺であうおじいさんが、
いつもとは違う格好で、金次郎の横に立っておいでたので
除幕式のことを、はっきり、覚えているのだ。
町野・旧東小学校の二宮金次郎像


ところで、年末、「お取り越し(おとりこし、在家報恩講)」に回っていて
「橋元勗」と書いた石がおいてあるのに気づいた。
それこそ台座だけになっていた、その台座を壊すことになり、
せめて、「名」の部分だけでも残しておこう、と置いておかれたそうで、
そこに出会ったのだが、
最近、銅像の写真を見ている。
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現御当主は、お孫さん。
どんな、像だったのか知らないとおっしゃる。
お生まれになったのは戦後10年経ってから…知らないのは当たり前。
写真も見たことがなく、そもそも、銅像の写真があることも知らないとおっしゃる。


せめて、写真と台座に刻んであった「名」を一緒に残さなくては…
と本棚を捜した。
見たはずだ。飯高百年記念誌執筆のため、最近しょっちゅう開いている『石川県珠洲郡誌』に、その写真があった。
プリントアウトして、お届けした。
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台座の「名」の部分は、高さ55センチ。
ほぼ、等身大の銅像だったことも分かった。
氏は
安政5年7月野々江生まれ、大正6年4月18日没す。
石川県会議員、珠洲郡会議員、衆議院議員に選挙せられ、前後3回直(ただ)村長に挙げられ、22年町村制実施以来村会議員に在職して、自治体のために画策する所あり。
珠洲郡製塩同業組合会長、珠洲郡製塩資金取締役、大日本塩業調査委員、珠洲郡畜産組合会長、石川県勧業諮問会員に歴任して、産業のため尽瘁せる功労多し。
明治30年4月直村長在職中、27・8年戦役に功労多かりしを以て、木杯を賜はれり。」(石川県珠洲郡誌p605)


鹿野浜の製塩と関わっっておいでた人物…
下の写真、向こうの建物の左に銅像が建っていた。
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