『遠野物語』ー柳田国男50回忌

8月8日は柳田国男の命日だったそうだ。
8日の朝日新聞天声人語」でそのことを知った。


「今日は柳田国男の命日。名高い「遠野物語」に、津波で死んだ妻の霊に、夫が夜の三陸の渚(なぎさ)で出会う話がある。名を呼ぶと振り返って、にこと笑った。だが妻は2人連れで、やはり津波で死んだ人と今は夫婦でいると言う。
「子供は可愛くはないのか」と問うと、妻は少し顔色を変えて泣いた。そして足早に立ち去り見えなくなってしまう。」


考えさせられた。
夫は口に出してはいけないことを言った。


日本民俗学会を辞めたためか、柳田の命日さえ気づかずにいた。
何回忌にあたるのか?
遠野物語」の原文は?

何よりも、有名な『遠野物語』を最後まで読み通しているのだろうか…?


などが、気になり奥の方にしまった民俗関係の本から『遠野物語』関係を探した。
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遠野物語』角川文庫 昭和30年
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『底本柳田国男集 第4巻』 筑摩書房 昭和43年
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『新編 柳田国男集 第1巻』 筑摩書房 1978年
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『遠野のザシキワラシとオシラサマ』佐々木喜善著・監修・山下久夫 宝文館出版 昭和49年
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遠野物語考』高橋喜平 創樹社 1976年
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『村落伝承論 『遠野物語』から』三浦佑之 五柳書院 昭和62年
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『山深き遠野の里の物語せよ』菊池照雄 新泉社 1989年
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『図説 遠野物語の世界』石井正己 写真浦田穂一 河出書房新社 2000年

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CD『白幡ミヨシの遠野がたり』監修・吉川祐子 岩田書院 1999年


遠野物語さえ、読んだかどうか?なので、他の本はパラーっとめくった程度か、こんな本があったのか…まで。


[原文]
99「土淵村の助役北川清といふ人の家は字火石(ひいし)にあり。代々の山臥(やまぶし)にて祖父は正福院といひ、学者にて著作多く、村のために尽くしたる人なり。清の弟に福二といふ人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先年の大海嘯(おほつなみ)に遭ひて妻と子を失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出しが、遠く離れたる所にありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女はまさしく亡くなりしわが妻なり。思はずその跡をつけて、はるばると船越村の方へ行く崎の洞ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑ひたり。男はと見ればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互ひに深く心を通はさせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありといふに、子供は可愛くはないのかといへば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり。死したる人と物言ふとは思はれずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりと心付き、夜明まで道中(みちなか)に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。その後久しく煩ひたりといへり。」
遠野物語』は119話を34題目に分類。『遠野物語拾遺』298話を44題目に分類した書である。
この話は『遠野物語』99(話目)で「魂の行方」に分類されている。


教員時代、柳田の「淸光館哀史」を教材で用いたことがある。
冴えきった月の元での踊りの描写がすごく、
あれほど情に訴えかけてくる文にはその後出あえなかったような気がするが
この99話も、「夏の初めの月夜」が生きている。
夏の月夜だから、亡き妻と出会えたのだ。
『山の人生』の「夕焼け」にしても、この人の情、人の悲しさを描く筆は、季節の清新な陰影と共に記憶に焼き付けられる。


柳田が亡くなったのは昭和37(1962)年、88歳だった。
そういえば連れ合いの実家のお墓のある春秋苑(川崎市)で、義母から柳田国男の墓石を示され驚いたことがあったが、
今年の8月8日は、50回忌だったのだ。


なお、『遠野のザシキワラシとオシラサマ』の表紙絵は水木しげる
監修の山下久夫先生は大聖寺の方で、
『山深き遠野の里の物語せよ』の後書きによると、この印象深いタイトルは、山下に遠野行きを勧めた恩師の折口信夫が山下に与えた(あげた)短冊
「住みつきてうつることなし雪高き閉伊のとほのゝ物語せよ」を踏まえたものという。
著者菊池照雄にとって、「山下久夫は私の遠野時代の先生」だった。
山下先生は昭和16年~昭和25年にかけて遠野におられ、その後、故郷に帰っておいでた。
そういう関係で、
私も「加能民俗の会」で、何度かお会いしたことがある。
最初にお会いした時、「遠野物語」の研究のため遠野高校の教員をなさっていた方、と紹介された記憶がある。


ところで、最初に購入した角川文庫本『遠野物語』を見る限りでは、3分の1ぐらい読んでいた。
99話目はしっかり傍線を引きながら読んだようだが、覚えていない。
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日々新た、
ということにしておこう。