能登の塩ー揚浜塩田ー資料(続)、13日追加【執筆】【珠洲市】
このところ塩田文化について電話でお話する機会があり、2005年に書いた揚浜塩田基本文献を見直してみた。
県指定について書いた文が抜けていることに気づいたので、
基本文献の追加、および気にかけていた関連資料を紹介する。
○「揚浜式製塩技術」の県指定について(PDF)
『能登の文化財 第27輯』平成5年(1993)8月10日刊より
塩田再興に心血を注いだ藻寄行蔵
○「塩田を守るー藻寄行蔵とその一族ー」(PDF)
『石川自治と教育』581号、平成16年(2004)6月15日刊より。
○藻寄行蔵碑(PDF)
『図説 能登の歴史』平成23年(2011)1月20日刊より。
羽咋市歴史民俗資料館学芸主幹・若狭康子氏の文「能登産物と近代産業」から引用させていただいた。
塩釜・4口。13日1口追加。
塩釜は中居(穴水町)で生産された。
長い間角花家以外では釜が用いられず,
能登塩の歴史を語る貴重な文化財なので、関係のあるところー主に観光地ーで保管が試みられたようである。
が、鉄と塩…すぐにボロボロになってしまう。
私が今までに見たのは次の4点(専売制廃止以後復活したものは除く)。
角花家の塩釜(西川哲氏撮影)
角花家。昭和64年夏の写真。
作業を行っておいでるのは故菊太郎氏。
後ろにおいでるのは、現在の当主豊氏。
明け方、塩になっていくときの写真である。
『石川の諸職』で製塩を扱うなどの理由で、角花家へなんどか調査に訪れたとき、
その年に、中学3年生だった西川哲(あきら)君が一人一研究でお母さんと何日も泊まり込んで克明な調査をなさっていた。
彼が撮った写真は知りたいすべてを写していた。
これもその一枚である。
『石川県の諸職』「製塩」で用いた写真は、すべて西川君撮影のものである。
哲君が石川高専生になった高校一年生の夏休み、家族揃って研究成果を角花さんに届けに行き、
県指定になったときには、(中三夏の)40日の努力が実った、と喜んでいたという哲君。
後に県指定に申請するとき、哲君の写真と『石川県の諸職』などを添付資料として用いた。
資料には住所・氏名を記し、ことあるごとに西川親子さんと連絡を取り合い、快く写真を使わせていただいたのに、活字になったものには写真提供者に触れていない。
そして、中学生が撮った写真だったはずだ…ぐらいの記憶になってしまっていた。
古い資料や、手紙などを整理していると、その頃の記憶が甦り、さらに答申資料を出して見ていたら西川君撮影と記していたことに気づきはしたが、書類の中に埋もれてしまっているだろう。
今、おそらく静岡市においでる西川さん一家、そして哲君にあらためてお礼を申し、遅ればせながら撮影社の名を付させていただく。
哲君の写真は、もっとも基礎的な資料として、現在も生き続けています。
ありがとうございました。
「喜兵衛どん」の塩釜
「喜兵衛どん」。
昭和61年(1996)3月22日撮影。
15年前の写真である。
「喜兵衛どん」には、国指定重要有形民俗文化財「能登の揚浜式製塩用具」(昭和44年4月12日指定)などがあって、観光地としてにぎわった。
敷地内に釜屋が復元されており、そこに釜がある。
私は平成15年(2003)まで珠洲市文化財保護審議委員をしており、その関係で、年に2回「喜兵衛どん」の文化財の状況、持ち主の要望などをまとめる役をしていた。
その頃に撮った、「喜兵衛どん」がもっとも元気だった頃の写真である。
通称・能登記念館を名乗った「喜兵衛どん」は平成14年に閉鎖された。
今は、本館の瓦屋根も一部が落ちそうになっておりすさんだ状態になっている。
「ホテルニューまうら」の塩釜
平成12年(2000)11月30日まで営業していた「ホテルニューまうら」前にあった塩釜。
2007年8月24日句碑巡り の折りに撮った写真。
現在、同地は平地になっている。
平釜の横の碑には「まうら揚げ浜の里…」とあり、以下紹介文がかすかに見える。
左下の石碑には「おらは やといどだ しかたの風だ お日のいる場を 待つばかり 砂取り節」と刻んである。
砂取り節の句碑は馬緤の句碑とここの、2つあったことになる。
ホテルニューまうら跡地から望む曽々木方面。
同じ時の撮影。
塩竃神社の塩釜
塩竃神社の塩竃。
平成2年(1990)8月6日撮影。
立て札には
「煎熬(せんごう)用塩釜
この釜は石川県能登半島(揚浜式塩田)で昔使われていたものです。
濃い塩水(かん水)を煮て塩をとったものです」。
平成2年仙台インターハイで、男子ソフトテニス個人戦参加者を引率して仙台に泊まった。
最後の日に松島・瑞巌寺などを一緒に回り、塩竃神社へも寄った。
口能登で。13日追加。
13日、運動不足解消のため口能登巡りをしていたら、偶然見つけた。
ほとんど傷んでいない。
口径142センチ、底部径124センチ、深さ19センチ・上部3・5センチ、厚さ1センチ。
塩田作業レリーフ
昭和33年(1958)、臨時塩業措置法により、揚浜式塩田は廃止され、観光用に3軒だけが残った。
月1万円の塩の買い上げ、が補助のすべてだったため、2年の内に角花家以外は廃業せざるを得なくなった。
このレリーフは、それ以前につくられたものらしい。
縦23.2㎝、横17.3㎝。
あるところで数多くしまってあるのを見つけ、とっておいた品であるが、掘った文字(「文化保護財」「揚げ浜塩田」)に間違い(財が財になっていない)があり、配られないまましまわれていたのではないかと想像している。
塩浜を行く山車。
藻寄行蔵の故郷、上戸町南方(うえどまちみなみがた)の山車。
昭和21年9月14日撮影の写真ー上戸柳田神社蔵。
上戸村長をなさり、上戸村史や珠洲市史の編さんを手がけられた間谷庄太郎さんから、
塩浜を曳いた山車の想い出を聞いたことがある。
ー山車を曳く直径30センチほどの縄を抱きかかえるようにして曳いた。
少しでも気を抜くと山車が砂浜にめり込み動かなくなってしまう…。
必死だった。ー
写真は戦後間もなくのものであり、曳き綱はロープのようで、間谷さんがおっしゃていたほど太くはない。
5間ギリコが電線敷設によって3間になったことをよく耳にしており、山車の小型化も電線敷設によるものだと思っていたのだが、
大きな山車が出ていた、鵜嶋・鵜飼・上戸・正院川尻、すなわち広い砂浜を擁していた一帯の浜で浸食が進み、山車を曳く場が道路に変わっていったことが大きな要因だったらしい。