碁石が峰周辺ー中能登町郷土史研究会ー
5月8日、この日の予定は、
中能登町郷土史研究会でお話しし、
その後、能登を知る会から参加者があれば、碁石が峰散策をする、ということだった。
ところが、夜に予定が入り、講演を終えてすぐ帰ることになった。
次善の案は、
・郷土史研究会幹事・桜井憲弘さんに碁石が峰まで案内してもらう。
・碁石が峰麓の高畠住吉神社、能登国三十三観音第11番札所正霊寺まで一緒に行き、この上ですよ…と道順を示し、そこで別れる。
その二つの案を腹案に、碁石が峰への道がどうなっているか、講演前に碁石が峰へ行ってきた。
原山大池側の桜。
酒井・神子原・高畠道が交錯する碁石が峰山頂(461.1㍍)近くから。
氷見・高岡方面。
山は二上山(ふたがみやま、274㍍)。
山頂からの邑知地溝帯。
正面が石動山山頂。艮の方角にあたる。
ブナ林。
一気に新緑…初夏。
邑知潟。
中程の橋は邑知潟大橋。
乗念寺(本願寺派)さん。
寺号は、平時忠が流された珠洲市大谷の地で結んでいた庵「乗念坊」に由来するといい、
開基を時忠の孫・時雄と伝える。
このお寺と、邑知潟の対岸部にある小竹(おだけ)瑶泉寺も、同じ時雄の開基伝承を有する。
瑶泉寺由緒
文治年中平大納言時忠諸国を遍歴中当国にて死去せり。依て時忠の息左中将時実の其の子時雄と共に当国に来り、時忠の遺墳を弔ひぬ。然るに其の後時実は帰郷し、時雄のみは祖父菩提のために此地に留りて、真言宗に帰依し遂に出家発心して、乗念坊と称し、瑶泉寺の号を賜はり、…」(『石川県鹿島郡誌下巻』)
羽咋郡誌では、一宮西教寺開基を時忠の三男・重之とする。
ガラボ古墳
聖護院門跡道興の歌碑(昭33年建立)。
文明18年(1486)、四柳の地で詠んだ。
よつ柳といへる所に柳のあまた侍りければ 立ちよりて
里人の鞠の庭にはしめねとも いともなつかしよつ柳かな」
碁石が峰もそうだが、このあたりには著名な雨乞い霊場が多くある。
能登の神主さんに四柳性が多いのは
中世、この「四柳」に神主さん(修験者も含むか)たちが集まっての一国祈雨(雨乞い)があり、効験があったという。
その褒賞として、領主が関係者に「四柳」姓を授けた、という話がある。
道興といい、雨乞い伝承といい、中世にはよほど重要な地だったのだ。
ところで、「能登を知る会」からは5人の方が参加なさった。
新聞などで何度も碁石が峯をお書きになっている藤平朝雄さん、
副会長の小野誠一さんに案内をお願いし、
中能登町を後にした。
立派なレジメを用意してくださっていた。