広岡の月峰、鬼屋の円智ー御文二帖目第九通の世界ー

広陵顕恵師のご葬儀の導師を鬼屋明敬寺ご住職が勤められた。
哀惜・哀悼の思いはもちろんであったが、
別な意味で、広岡満覚寺と鬼屋明敬寺の長くて深い交わりを思っていた。


その伝えは、文明6年(1474)まで遡る。
当時、総持寺末に
学僧・傑僧として知られた広岡の月峰、鬼屋の円智がいた。


うわさでは、
吉崎に蓮如という僧が文明3年から居を構え、
誰でも救われる教えを説いて、大変な評判になっている。
能登からも吉崎に出向くものが引きも切らぬ様子で、
あまりの群参に
諸人の出入りを禁止しようとしているとのうわさも聞こえてくる。


黙っていたら学僧としての名折れだとばかり、
それぞれ論争を挑むために吉崎をめざした。
まず、月峰は話すうちに教えと上人の人柄にひかれ、弟子となった。
その教えを「文」としていただいたのが、
御文の2帖目第9通だという。


円智のほうは、上人の側を去りがたく、
数週間滞在したあげく、上人画像を頂いて帰郷…、
まもなく真宗に改宗した、という。


広岡満覚寺は山手、鬼屋明敬寺は里の違いはあるが、
どちらも総持寺のすぐ近くにある。
特に広岡には雨ノ宮があり、
近くには古和秀水(こわしゅうど)もあって、
水源域を占める、重要な地である


この伝承は、加賀の一向一揆500年を記念して作った『蓮如さんー門徒が語る蓮如伝承集成』「帰依(きえ)した2人の禅僧」(PDF)(加能民俗の会編・橋本確文堂1988年刊)にはじめて紹介され、
『蓮如上人と伝承』「女人と御文」(PDF)真宗大谷派金沢別院・1998年刊)でも紹介した。

御文ー二帖目の第九通

「自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらえるそのこころはいかんぞ」
「二仏をならべざるこころなり」
南無阿弥陀仏といえる行体には一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行もことごとくみなこもれる」
などと説く
極めて重要な御文(PDF)である。
この御文が自力の行者として歩んできた月峰に付与されたという成立由来は、
いかにもありそうな話で、
説得力を持っていた。


『御文来意鈔』部分(PDF)(釋慧忍著西村護法館など・明治33年刊)
に、当然、この話が載っているだろうと、
あらためてその部分を読んでみた。


ところが
禅僧との問答の中で書かれたとは、書いて無い。
吉崎の火災
蓮如上人絵伝などで「腹籠りの聖教」の場面として知られる事件、吉崎には、火消し蟹伝承があるー
の折に書かれたとあるではないか…


火災に遭ったことによって、
鎮火祈祷をしない教えに動揺する門弟が現れた。
何事もない時は、
教えに頷いていても


辛い出来事が我が身に降りかかると、
「信」が飛んでってしまう。
そういう門葉に対し、
先住の御命日にあたり、
あらためて「弥陀一仏」を説いた
御文であると記している。


いずれの来歴にしろ、
それぞれの地域に応じての来歴があるということは、
地域、風土、人びとと一体となって
教えが語られてきたことを意味する。


もう一つの来歴を知ることにより
御文世界の大きさに
改めて感じ入ることとなった。