いい森・杜ー大猿退治伝説ー羽咋市酒井ー

かつては鹿島郡、現在は羽咋市に属する地に用事があり訪ねた。
予定の時間よりかなり早く着いたので、以前から気になっていた宮森を歩いた。
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これは五輪陽刻板碑。水輪に大日種子が彫ってある。
他にも、大日如来陽刻板碑などがあった。
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昭和6年に鋳造された喚鐘。
今度の戦争で、金属製品は悉く供出されたと聞かされていたのだが、
ところどころでこの喚鐘のように供出を免れ、地域に息づいている様子を見る。
時代を語るこういうものこそ、文化財に相応しいと思えるのだが…。


この宮森、板碑などがどの程度紹介されているのか、
『石川縣鹿島郡誌』や『羽咋市史』などを開いてみた。
大蛇潟(邑知潟)が森のすぐ側まで来ており、
人跡未踏のこの地を平定した先祖神が酒の作り方を教えたと書いてある(『石川縣鹿島郡誌』)、
なるほど地名由来か…とうなずきながら
羽咋市史』を見ると、
なんと
「お出で祭り(平国祭)」に
「桃形の小さな団子を供えてからまく。」とあるではないか。


昭和60年に刊行した『鹿島町史』通史・民俗編で、

20日の夕刻5時40分、行列が到着する。(区長宅に基調宅に集まり35名で団子を作ったことなどを紹介ー中略)この団子は、桃を半分に切った型に榊葉を挿して桃色に塗ってあるため、「桃団子」と呼ばれている。
伝説によれば、大国主命が国々を平定されていた時に当地にも立ち寄られ、農民の願いにより、田畑を荒らす大猿を退治された。
その猿の供養のために作られたのがこの団子で、元は猿の尻をかたどったものだという。
尻の連想から安産の御守りとして重宝がられ、人びとは、高張提灯3本に照らされた台の上から撒かれる団子を、先を争って拾う。
嫁に行った娘は全てこの日に里へ戻っており、前年中に在所へ嫁いできた人は晴着でお参りする。

と書いた。
「お出で荒れ」という言葉があるように、調査した年は大変な雪で、3月20日になっても山手の神社では相当雪が積もっていた。
その雪深い神社に薄暗くなってから着いたと記憶しているのだが、
そんな寒い時間帯の境内に
いっぱいの子どもたち、ところどころに晴着姿の女性たちがいたのである。
別世界にまよいこんだような気がし、
鹿島町史』誌ではあったが、お出で祭りらしい伝統と華やかさが入り混じった羽咋での行事を記したのだった。


原稿を書き終えれば、写真整理もしないのだから
晴着姿の女性たちの写真を見ても、
どこでのできごとだったのだろう
…そういえば、東往来に不思議なところがあったなぁ…
程度になってしまう忘却ぶり…


それが、今、ひょいとつながった。


少なくともはじめての地ではなかった…、
ということだ。



片岩叩き堂祭りにおける狒々に投げる餅
七尾青柏祭のナガマシ
ここの、桃団子…


旧山王社を舞台とする猿の物語は
食べ物とも結びつき
なんとも、ドラマチックだ。