日野西真定さん(師)から

 金沢に一泊の用事があり、またもや部屋の斜め下を列車が通過する部屋があたり、
寝不足気味ながら気の張る仕事を終えて帰ったところ、
日野西さんからエクスパックが届いていた。
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 本でもお出しになったのかな?
 それにしては少し薄いか、と思いながら、封を開くと、
お手紙と高野山関係の新聞二部、『大法輪』の今月号が入っていた。
お手紙には、大法輪に書くよう依頼されて書いた文に「貴師の論を使わせてもらいましたので」送るとあり、
「昨年7月以後は、奥の院維那から離れ、研究一本の生活」に戻られた旨が記されていた。
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『大法輪』は父の代からずーーと取っている。
積ん読状態で、
今月号も表紙を眺めただけで、まだ一度も開いていなかった。
日野西さんが書いておいでることにも気づいていなかった。
同じ雑誌が二冊あるのはどうしてか、そのうち訳が分からなくなるのは必定なので、
書き留めておかねば…と書きだした。


引用なさったのは次の箇所である。
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恩師の五来重先生、
大先輩の日野西さん、
ちょっと先輩の浜田さん、
それに私が同じページに並んでいる
その時代の仲間がいたら、想い出にひたり切りになりそうになるページ設定だが…
それはおいておいて(蓮如上人は歴代の数え方によって八世、七世があるが、私の所属する大谷派では八世なので書き換えた)。


 日野西さんが高野山奥之院(現在は「奥の院」を使っているようだ)の「維那」という役職に就かれているのは、賀状などで知ってはいたが、
 入定中の(入滅ではない)弘法大師に、人に知られることなくお仕えしておいでるのだろう…ぐらいの認識だった。

 宗教民俗学会でもお会いしたし、この前の日本民俗学会でもお会いしたような気がする。
だから、どんなことをしておいでるのか、お聞きすることもなかった。
 読み方も分からない。
 でも、ここでも「前」の維那になっているし、気になった。インターネットでさがした。
 ユイナと読む。
 そして、次の記事のような、
 私の知らない日野西さんがあらわれた。

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昨日の日付はスキャナーに取りこんだ日付で、写真及び以下の記事は、佐藤弘弥さんのブログ早春の高野山」2007年1月27日撮影から転載させていただいた。
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そして、2006年9月13日の毎日新聞の記事の引用。
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さらに「金剛峯寺奥の院・日野西真定維那に面会したコーヘン大使とバース参事官」という写真まであるではないか。


大変なお仕事についておられたのだ。
ご苦労様でした、としかいいようがない。


同封されていた新聞には、「鎌八幡」の行事を書いておられる。
能登諏訪神社「鎌祭り」と同様の行事のようである。
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このページ(高野山の文化「巡寺八幡について」の3ページ目「霊峰館だより」第86号、昭和20年3月4日刊)に、
加能民俗にお書きになった小倉学氏の説を紹介されておいでる。
しっかりした研究報告は、このように、
論を知る人を通して紹介され、伝わっていく。
そんなことも思った。


もう一部は「高野山教報」1419号にのるもので、
ここには「高野山各院の門前に祀られる「手水鉢」と「手水桶」」を書いておられる。
研究一筋とおっしゃる、まさに。一筋の世界が伝わってくる。


日野西さんに触れたついでに、手元にある著書。
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弘法大師信仰』は買ったが、『高野山民俗誌「奥の院編」』はいただいたはずだった。
どういう形で頂いたのかは覚えていないが、ともかくいただいたのだ。
スキャナー読み取ったあと、表紙をめくると
「平成六年(1994年2月9日)アエノコト(あえのこと)調査 日野西氏より受贈」とメモ書きしてある。


日野西さんと「あえのこと」を見に行っている?
能登に日野西さんがきていった?
(記憶欠落はここまできている)。


どこの「あえのこと」だか覚えていないが、日野西さんが能登においでた背景をジワジワと思い出した。
氏が高野山大学の教授時代、町野高校から高野山大学に行った学生がいた。
ただひとりの学生に対しても、日野西さんはすごく大切にしておいでた。
それが、彼が能登に来てくださいという願いに応えての調査行だったのだ。
その時、ちょっとだけお会いした、そんなことを思い出しだ。


さらに、
あれは、曽々木の海岸近くだった。
あの時、その学生も、その母親もいた。
願いに応えて先生がきてくれた。
嬉しくてたまらない、といったふうで、興奮していた学生の様子が
ぼやーと、今蘇っている。


学問、教育者、維那、いずれにも真剣に向き合ってこられ、
その延長上に、83歳になっておいでる今も益々学問に情熱を注いでおられる。


人生そのものの誠実さが、報告書や研究成果の行間を補い、
時にはにじみ出てくる。
研究されてこられた報告が
次々と世に出ることを願わずにはおれない。


稀有な先達から届いた、春の便りだった。