お彼岸とお講

20日には、18日に終えたお彼岸のお参り、八組坊守会、伊藤常次郎顕彰碑招待について書こうと思っていた。
ところが、気にしていた31日の河北潟大崎のお参りに行けないな…と書き出したら長くなった。
「予定は予定」のタイトルにし、引き続き、彼岸その他を書くのは長いなァと考えつつパソコンをいじくっていたら19日に書いた形にすることが出来た。
20日が空いた。18日お彼岸、19日八組坊守会をここに入れよう。


今晩、夜行寝台特急「北陸」に乗って東京に行き、21日に結婚式・披露宴。その晩、再び「北陸」で帰る。
それで、今年は18日の彼岸の入りに彼岸会を行った。


当寺では年に5回のお講がある。
お講というと、当番組の方々が具を持ち寄って料理を作り、「お斎(とき)」料理で時を過ごすイメージなのだが、それを行っているのは「報恩講」中の「寺お講」のみで、現在は、お参りのみ行う「あげお講」になっている。
それが春・秋彼岸、祠堂経中の2回、それに「報恩講」中の「寺お講」との5回なのである。
 

この春彼岸は、野々江地区の「あげお講」日でもあるのだ。
あげお講の「あげ」は「上げ」でいいと思うのだが、このあたりには「揚浜(あげはま)塩田」があるので、「揚げ」かな?と一瞬迷う。
本末転倒。「引き上げ」なのだろう。


お講のお参りは『正信偈』中読、三首引き、回向(えこう)「願以此功徳」、御消息拝読。
彼岸会のお参りは、阿彌陀經、短(たん)念仏、和讚「十方微塵世界の…」添え「万行(まんぎょう)の…」、回向。
お説教となる。


午後1時半から4時過ぎまで営む「お彼岸」は、二つの仏事から成っていることになる。


法話には、何を話そうか…?
今年は親鸞聖人御流罪800年。囘忌ではなく周年。
正信偈』や『教行信証』に、「本願海」のように海を多く喩えに用いられている聖人と海との出会いの年。
一席は「聖人と海」について調べ、語ろうと思った。
もう一席は「御本尊」について。


ところで、ここに来て雪になったり、雪がちらついたりしている。
あれほど1、2月は暖かかったのに…このところめちゃめちゃ寒い。
土星の輪がどうだとか、外国のことはいろいろ映像を通して知っているような気になっているが、スキー場を閉鎖したとたんに雪になった、と嘆いておられる関係者の様子を見るにつけ、近くの出来事ほど分かっていない、と思う。


聖人と海を調べる前に、目の前の日本海はどうなのだ?
境内には南方系のタブがあり、墓地には棕櫚(しゅろ)があり、今、梅が花開いている。
暖流(対馬海流)はどこまで北上していて、寒流(リマン海流)はどこまで流れ込んでいるのか…??


あらためて「青島文化」を提言するという市川健夫氏が1999年にお書きになった文を読んだ。
海士と海女、椿、なれ鮨、魚醤、丸餅と菱餅文化圏、魚の種類、刳舟などを通しての文化論が展開されている。
面白い、いくつかの疑問もどんどん溶けていく。
登呂遺跡で見つかった農業用水は灌漑なのに、天水で行える水田が山近くまでの棚田を作り上げたとか、明治5年、道府県で最も人口が多かったのは新潟県だった、ことなどを知ったとき、
かなり郷土風土自慢をしているものの、もう一段見方をUPしなければならないかなァと思った。


聖人が出会った海=日本海は、母なる、豊かな、親さま…の海だったのかも知れない。
冬の波荒き日本海が強調されすぎていたぞ。


そして、『信疑決判』に載る義経伝説が説教に利用された「初音の鼓」話が面白かったので、それも紹介することにした。これは、先日某市の市長さんに民俗資料を残すよう陳情に出向いたとき、義経伝説が話題に上がったことが耳に残っていたところから思いついた。



あげお講なので、当番地区から数名のお参りはあるだろうとは思っていた。
たとえ0人でも話す練習…と思っていこう、と資料をまとめていった。