珠洲・鈴・須須の由来

珠洲の沿革を原稿用紙2,3枚にまとめようとしているのだが、


この30年ほどの間に、
須須は鈴の古訓であるとか
須須許理の須須と関係があるのではないかとする『越登賀三州志』『珠洲郡誌』などの重要な説・仮説が捨て去られ、


ススミから須須になったという荒唐無稽に近い説が出回っている。
これをどうしたものだ…と考えていたら中々まとまらない。


珍説であろうとなかろうと一つぐらい目立ったことを書かなければ、地方(?)に呼ばれて編さん委員になった甲斐がないとばかりに、
何かを探し出して新説を残していく学者も大変だが、
彼らは本来の場所に帰れば遠くの地からあくまで仮説だと言っておればすむ。
問題なのは、著名人のおっしゃたことだからと仮説の仮をとって説にしてしまい、
あちこちに書きまくったり話してきた郷土史家で、
それも、つきつめれば、ボーと放っておいた自分自身の問題になってくる。


普通の郷土史家は、地元を褒め称えるものだが、
自虐的な印象しか与えないススミをよいしょしてきた人々はどう呼べばいいのだろう。


この仮説は、『珠洲市史』に載っているもので、
烽の古訓にススミがあって「ススミないしはススが須須」になったのではないかとする。
ススミはあくまでススミであって、
スス・須須・珠洲にするには、ミが接尾語であろうとなかろうと、どこへいってしまったのかを説明しなければならない。


それなのに「ないしは」というレトリックを用いることによって、ススミ=ススが存在していたかのような錯覚を読む人に与え、
その先は、ススだけにしぼって話を進めている。


よくあるんだなァ…この手合いが…。


珠洲は真珠の輝きのように綺麗な洲(くに)と書いてきた
(たとえば『能登のくにー半島の風土と歴史』ーいつのまにか新聞社の宣伝ではー半島の民俗と歴史ーとなっている)や
『北國文華』復刊3号)
私の郷土史家的郷土愛と、烽のススじゃイメージは対極じゃないか。


ところで珠洲は綺麗な漢字だ。
それさえも、烽と珠洲のギャップを埋めるために学者は好字を使えという国家命令によって、
「烽」が「珠洲」になったのでは…と強引にもっていく。
その好字の例を北陸のどこかの例でももってくれば、そんなに近いところにそんな例があるのか、なら珠洲もひょっとして…と考えさせないでもないが、挙げてある例が明日香なのだ。


その例も、明日香が飛鳥になった、のように
好字に変わったとするには相応しくない。
奈良以前の政の中心地と
好字にしたころは能登國にさえなっていない越の地を
同じに論じようとする前提自体がおかしい。


8世紀になって、はじめてスズの表記漢字らしきものが『出雲風土記』の「都々」や
平城京出土木簡の「□珠」としてあらわれ、
それが「珠洲」に定着したというのなら分かる。


須須神社の須須は、神社縁起にもあるように鈴の訓なのだ。


先にも後にも、ただの一度も珠洲地域に用いられたことのない「烽」を思いつき、
何とか結びつけようとするための知識羅列の「あはれ」……


ため息ばかりが出て、先にすすまない。


最初にその説?を書いた本が出た頃は、
自転車で通りを横切ることが出来ないほど観光客が町に溢れていた。
数軒に一人は同級生がいた。
エネルギーが漲っていた時代だったから、
何を書いても、どんな実験に珠洲を利用しようと、
大きなエネルギーがものともせずに包み込んでいった。


それから30年。
1万7000人しかいない市になった今は、
伝説とロマンの里を暖かく見守り、やさしく表現しなければならなくなっている。


今、本を作れば随分違った、思いやりのある本が生まれると思う。