コメントとのお付き合い、そしてお詫び

このブログはコメント欄がすぐ目につく。
コメントはクリックしないと読めない方がいいと思っている。
本文以上にやりとりが長いようなのは、これからコメントだぞと
切り替えてから読めばいいのではという思いだ。


方法はあるのだろうが、今まで折角いただいたコメントをセッセと削除してしまっていた。
ひとことお返事を書こう、に切り替えたのだが、
コメントが届いているのかどうかが分からない。


「一つの言葉」をさがしていて、
新たなコメントがあることに気づいた。
一昨年の12月18日、
昨年7月10日のコメントである。


特に7月10日のは、
私自身の葛藤に引き寄せ、
真宗僧として民間信仰を研究してなさっている方の勝れた研究書(藤原修著『田の神・稲の神・年神』岩田書院)から後書きを引用させていただいた、
そのご本人からのコメントだった。☞2006-07-10

その日の本文で、
「慰め合いにしかならないかもしれない、まだ『能登国三十三観音のたび』は送っていない」と書いた。
コメントには、「いいですよ。読んでみたい」とあり、
翌朝、今まで気づかなかったお詫びの文と共に急いで本をお送りした。


「一つの言葉」がなかったら永遠に気づかなかったかも知れない。
となれば、
失礼ながら、無視し続けていくことになる。


早速かつてそういう場合はどうするか…をコメント欄に書き込んでいただいていた方法で、
コメントがあったことを知る設定にした。


それにしても1年から半年も気づかないとは、と、オタオタしながら丁寧に見直すと、
書き込んだ日付が下に出ていた。
いずれも今年の2月になって書き込んでおられる。
そんなに焦らなくてもよかったのだ、とほっとしたものの、
コメントに対していろいろ試行錯誤をしたことを思い出した。

 
返事を書けば、コメント・返事、コメント・返事…が長々と繰り返されるような気がしたり、
最初の頃は本文のみでいくことにし、
面識がない方からと思われるコメントはすぐに削除もしていた。


他のブログ対話を読んでいるうちに
阿吽の呼吸でやりとりが終わっていることに気づいた。
返事を書いてあるブログに感じる豊かさと、返事の書いてない空しさにも気づいた。
何か書くべきなのかもしれないと
途中から愛想はないのだが一言だけを書くようにしてきた。
 

気になるのは、折角お書きになったのに勝手に削除し、
空しさを相手にお与えしなかっただろうか…
ということである。
削除したものは還らない。
今、ここでお詫びするしかない。


話題は飛ぶ。