「おわたまし」「おあたまし」は、「おたましィ(魂)」ではない。

 
現在一般にはほとんど用いない言葉に、古語の「わたまし」がある。
高校で古典を教えていたが、教材にもほとんど出てこなかった。
現代では、全く馴染みのない言葉の1つだと言っていいだろう。


ところがこの言葉が、仏教世界では結構頻繁に用いられているのだ。
ちなみに古語辞典(旺文社)では、次のように説明されている。

わたまし

わたまし:【移徙・渡座】移転・転居の意の尊敬語。貴人が新居に移転すること。御転居。後世は一般に、転居。
 

例文が面白い。
「世に物忘れする者ありて、わたましに妻を忘る」〈沙石集〉 

沙石集は鎌倉期の仏教説話集。
当時の用例では、身分の高い人の話だと思うのだが、「者ありて」だから、一般の引っ越しでいいのかも知れない。
ともあれ、よく物忘れする人がいて、引っ越ししたが妻を忘れてきた、というのだ。沙石集を今一度読みたくなる。


この「わたまし」をどこで使うかというと、ご本尊をお仏壇に納めるとき、
あるいは、引っ越しなので、ご本尊をお移しするとき…などで用いる。
「貴人が新居に移転する」。貴人をはるかの仏様=阿弥陀さまにお移り願うわけだから、「わたまし」に御をつけて、最高敬語にして「おわたまし」と言っている。


漢字で書けば、「移徙」。移と徙。徙は徒に似ていますが違う字です。
移も徙も移るという意味です。
それで、お移りになる。そのお勤めをします…
と話しても、ワタマシという言葉さえ始めて…。
意味になると、聞く耳がいなくなり、その結果、「オワ」がどこかに消えてタマシ(ィ)、あるいは、オタマシィ、となって耳に残り、
最終的には、「魂回し」となってしまうようなのである。


「移徙」とか「お移りになる」とか難しいことをおっしゃっておいでたが、要するに魂を入れたか、魂を移したか、どちらかなのだろう…と、そうではない、といったのにも関わらず、反対の意味として受け止められてしまう。
紛らわしい言葉は、さらに、親戚に伝わる頃には、
魂回し、あるいは、魂移しも済んだし…となってしまう。


私は、「南無阿弥陀仏」が書いてあるお墓に対しても、最初のお勤めには「おわたまし」に近い説明をして「阿弥陀経」をあげている。
私が教えを聞くことが出来たのも親が私を産んでくれたおかげだ。その尊い方の遺骨をお納めしてあるお墓。その場(お墓)が設けられるのも、移徙=わたまし=なのだろう。
そうとしか説明のしようがないし、それでいいと思っている。
それでいいと思うのは、そこから、魂移しではないのですよ…、など、
いろんな話に繋がっていく可能性があるからだ。

祠堂経の説明記事

こういうことを書いたのは、16日の新聞に
あるお寺で祠堂経がはじまるという記事と共同墓地のお堂が完成しお参りが行われた、
という記事を見たことによる。


祠堂経の方は、1日目に門信徒物故者追悼法要を行う、と書いてあった。
その説明文が
「位牌堂(×)に安置してある先祖の霊(×)にお経を捧げる(×)」となっている。
×が真宗では言わない用語である。
すべてのお寺で行っている祠堂経をわざわざ新聞記事にしてまで載せている。
一般に言われている祠堂経の説明がおかしいから、敢えて記者に連絡して書いて貰ったというのであれば、意図は分かるが、
ありえない説明がなされているのはどういうことなのだろう?


もう一つの記事は、地方紙2社とも同じトーンで、入魂式を行い、供養が行われたとある。
お堂に入魂…。 これも、あり得ない。

それに供養を行う??


記者は、一般の人が分かるように…と言葉を置き換えることがあるそうだ。
ちゃんと説明したのに、霊祭り、と書いた方が分かると思ったのかも知れない。

 
一方で35願論争のような雲の上のような話があり、
一方で、自力か他力か分からない、山伏が行っている行事であるかのような紹介のされ方をする真宗行事もある。


幅広い、問題の中で、どこに自分のスタンスを置くべきなのか…
大きな問題なのだが…キリがない。