能登島・野崎でのお通夜午後、宮原四良さんのお通夜に向かった。


お通夜は本堂がほぼいっぱい。
正信偈を皆、上手に勤められる。
住職さんの御法話は、共に念仏をいただいていた来た人との別れ、の寂しさ。
仏法不思議の世界など、

こころのこもったお話しだった。

宮原さんの家は、お寺の前。
野崎にはお東とお西のお寺がある。
資料館友の会の引率で、珠洲焼の仏神像があるお西のお寺を訪ねていたので、何とはなしにお西のお寺でお通夜だと思っていたが、
野崎が近づくにつれ、そうだった宮原さん宅は聖川さんのお寺の前だった、と記憶がよみがえってきた。


お寺の裏山に墓地があり、時間があったので登ってみた。
2基の五輪があった。
野崎の街並みの向こう海ぎわに、能登国第3番嶽観音の森が見える。

薬師寺能登島の薬師ー

お寺ー正願寺さんの前身は薬師寺だったという。
そういえば、野崎は島の東端の集落だ。
能登島町史」には景観論がなかったので、触れなかったのは仕方がないにしろ、
七尾の東海岸の薬師信仰をあれだけ拾いあげたのに、野崎の薬師には気づかなかったなァ…などを、
亡き宮原さんと対話 (こころの中での独り言の往復) した。

目連尊者

ご住職は、去年、私が同朋大会で話した、16日、盆踊りの最後に踊る「目連尊者」が左回りになることを、覚えておいでになり、野崎でも50年ほど前は左回りで踊った、とお話しくださったり、
全島真宗門徒の島で、お東2ヶ寺、お西1ヶ寺で、仏教会を立ち上げたことなどを話してくださった。
 

当時の町史編さん室長 桂さん、室員宮原さん

大勢のお参りの中で、知り合いは、
宮原さんのお子さん、住職さん、いま市会議員になっておられる町史編さん室長だった桂さんの3方だけ。
あの頃、向田の公民館で聞き取りした盆踊りの話を、今、住職さんがなさっています…と桂さんに説明し、なんとなく宮原さんの追悼に最もふさわしい話題で話しあっているように思えた。

聖川住職さんは、よっぽど珠洲からお参りに行ったことが心に残ったのだろう、
法話の一部に、私の名をあげてお話しなさった。
宮原さんは教育長、ガラス美術館の館長もなさっていたのだという。

帰り道の島の月、
海に映える月、

野崎には、もう訪ねることもない、との思いでのお参りに向かったのだったが、
もう一度くらいは、月に誘われて、野崎付近を訪ねたいと思った。