『能登島町史』と宮原四良さんー七尾市

昔、宮原さん宅へ何度かおじゃました。

能登島町史』通史編 (昭和60年3月発行)の「編集を終えて」の記事 (執筆は当時の企画課長・編さん室長の桂撤男氏)。
「昭和54年7月に、架橋完成記念事業の一環として計画された郷土の歴史本の編纂も、今ここに第三巻通史編を発刊し、完結の運びとなりました。(中略)
祭り行事を調査の西山郷史専門委員は雨でずぶぬれになって奮闘され、
ふと取材を忘れて祭りの楽しい雰囲気の中にありました。
秋祭りの取材には、宮原家 (野崎) や田中家(島別所) に大変ご馳走になり祝い酒に酩酊し、
気が付いた時には車に燃料を入れるのを忘れてしまい夜中、私の車から一升瓶に移し、入れた事を今、面白く思い出されます。」
 
58年に刊行された資料編第2巻の「編纂日誌」を見ると、
延べ31日、能登島に調査に入っている。


この編纂日誌にも
「昭和57年7月30日~8月1日 西山郷史専門委員来町、向田にて火祭りの調査、準備作業から祭りの後始末まで雨に濡れて奮闘する。」
西山郷史、竹内康平両専門委員来町、竹内氏役場駐車場で4日朝西山氏と待ち合わせたが、
行き違いがあり調査地の祖母ヶ浦専正寺に十時頃到着する。」
などの記載があり、わざわざお書きになるくらいだから、
随分、珍調査があったようだ。


能登島大橋が開通したのは、昭和57年4月3日のことだった。
はじめの方は船で、後には車で島へ出向いた。


先に記した一升瓶で桂さんの車からガソリンを抜き取り、
私の車に補充して珠洲へ帰ったのは橋がついて、
初めての秋祭り調査のおりだったのだ。
もちろん酩酊ではなく、松茸の骨酒というのを、匂いでぶっ倒れそうになりながら一口いただき、
獅子殺しに至るまで、真夜中までの調査を終え、
翌日の授業に間に合うように帰ろうとした時、
ガソリンが無いことに気づいたのだった。


闇の中で、向田の桂さんの家まで行き、
ガソリンを抜き取る惨めさは、
それまでの祭りが華やかだっただけに、強く印象に残っている。


秋祭りはとんぼがえりだったが、ほとんどの調査は夏休み中に行っていた。
1人でやっていた就職係、野球部でのノック・練習試合、
それにこの年は、愛知県吉良で行われた近世仏教史研究会の合宿にまで参加している。
この年の研究会は、寺檀制度を真っ正面から取り上げた記念すべき研究会だった。


昨日、偶然お話しした吉良での思い出…
宮原さん逝去の新聞記事を見て、色々辿って行く中で、吉良へ行った年に巡り会った。
能登島町史の頃だったのだ。


随分お世話になった、宮原四良さんご逝去の新聞記事。
中日新聞には「まじめな人でした。」と一言記されている。


あの頃、宮原さんは能登島小学校の校長先生だった。
前後するのかも知れないが、文化財保護審議委員長も、
郷土史研究会の会長もなさっていたはずだ。
なによりも、基礎をしっかり調べあげ、専門医委員に情報を提供なさる宮原さんがおいでにならなければ、能登島町史を立ち上げようとの機運も生じなかったかも知れない…。
そういうことには、一切触れずに…
まじめな人でした…。
宮原さんらしいなァ…と思う。


いったいあの頃の宮原さんは何歳だったのだろう?
享年82歳と出ていたから、24、5年前は、50代後半、
今の私より若かったのだ。

能登島へ通った35才

そして、あんなに滅茶苦茶に動き回っていた当時の私は…35歳。


35歳…
真宗門徒には、様々な思いが交錯する35歳…。
 

今晩、お通夜へおもむき、宮原さんから色々聞いてくる…(予定)。