信時潔伝説と『僕は12歳』

紫会(真宗大谷派能登教区5~7組坊守会)で、お話ししていて
意外だったのは「討匪行」を知っている方がおいでにならなかった。
「敵(賊)にはあれど…花を手向けて…」の歌詞があるため軍部は「討匪行」を歌うのを禁止したたという伝承話や、

海ゆかば」「みほとけは…」と作曲家・信時潔のお話しをしていくと、
つい先日、もっと詳しいお話しを「高史明」という作家から聞いたという方が、27,8名中、2、3人おいでた。 
その時の話だと、作曲家は小松の大谷派僧籍を持つ方だった、という話だったという。
確かめてみなければならないが、
羽咋工業の校歌の作曲が、あの名高い「信時潔」の疑問は、県内の方であったなら簡単に説明がつく。


【24日追記】
 調べてみたら、信時潔氏は、
明治20年大阪生まれ、父は牧師だったという。
海ゆかば」は昭和12年50歳の時。
校歌は900曲ほど作曲しておられ、石川県関係だけでも小学校から大学まで15校作曲したことになっている。
お孫さんの編纂した労作年譜に、羽咋工業が載っていない。
昭和38年、76歳の時文化功労賞。その少し前の作曲のはずである、どこかに仕舞ってある、2冊ある羽咋工業10年誌を見れば詳しいいきさつがわかるだろうし、
コピーして、送ってあげればいいのだろうが…】
→【羽咋工業・明善高校】心ありのままに
と、このことを書いているとき、高さんが真宗と邂逅なさったきっかけに、
比較は出来ないが和泉式部と小式部同様の、1人息子さんとの別れがあったことを思い出した。
そのお子さんの詩集「僕は12歳」を、
羽咋工業の生徒が図書館に入れて欲しい、
といい、購入したことも思いだした。
あの時、この生徒はどこでこういう本を知ったのだろう、と意外に思った。
30年以上も前のことである。


その本とご両親と親鸞聖人。
この世界が、その後、どれほど多くの人々に、
勇気・生きる力…を与えてきたことか…


出会いの尊さを、改めて感じている。


そんなことなどを考えさせてくれた会所・剱地光琳寺での光景と、
途中に寄った輪島の本屋で買った本を写真で…
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左:勉強会に集まってきた坊守さんたちの車と会所。右:講義終了。
そのうち、この話を詳しく書くことができればいいのだが、
携帯につけている阿弥陀経ストラップという綺麗なストラップを、皆さんにお回し見ていただいた。
青・黄・赤・白の組みあわせ。その発想の素晴らしさに感嘆の声…。