祠堂経・祠堂・「オザと真宗門徒」

長い期間のお参りに、祠堂経会がある。
永代経というところもある。
あるいは、永代祠堂経ともいったりする。
仏説祠堂経とか、仏説永代経というお経があるわけではない。


真宗のお参り・仏事の名称は、地域によって随分違うが、
報恩講と、祠堂経あるいは永代経は、どこでも通じるようである。


「経」がつくお参りは、考えてみれば、不思議な名称の仏事だ。


私のところでは、「祠堂経」といえば、この期間のお参りをいい、
「祠堂に着く」とか、
「祠堂をあげる」というと、
亡き人を縁として、家族などが、お経をいただくことを言う。
祠堂経と、祠堂では意味が違うのだ。


もともと、祠堂は、お堂であり、
ご本尊を安置する本堂と同じようなものだが、
七高僧聖徳太子親鸞聖人、前住上人、さらに有縁の諸仏が教えを説いておられるお堂、
といったような意味合いを持つのだと思っている。


それで、こういう方々の願いが教えとなって、
それを聞く道場を守り、育て、私も子孫も、教えを聞いていって欲しいと、
かけられている願いが祠堂をあげる( あげさせていただく )中に籠められている、
と、この場合は祠堂をあげなさった方に対して、
このようなお話しをする。が、
もともと
私たちのところでは祠堂を上げる方が少ない地域である

「祠堂」という場所

聞法の作りである道場形式と
仏を中心に修行の場が意識されている他宗の本堂と作りが違うし、
どなたの影像が安置されているのか話す機会もあまりなく、
知っておいでになる方の方が少ない。


仏間の彫刻になると、何のお話しを描いた彫り物なのか分からない。
仏像の専門家がお泊まりになり、一緒に見たが分からなかった。というか、
その人が、何だろう?というので始めて関心を抱いたぐらい、
祠堂という堂そのものに無関心だった。


いずれにしろ経がつくお参りだけあって、
必ずお経=浄土三部経を順繰りにお勤めをする。
その後、お説教がある。

義務だった「祠堂経」参り

昔は1ヶ月のおまいりだった、ということを各地で聞く。
長いので、前半を祠堂経、
後半を別経とし、
それぞれ15日勤まったものだという。
1ヶ月だと、親に別れた人は、必ず親の命日と出会う。
期間が短くしての10日間の場合でも、
たとえば、1日だと、少なくとも、1日、11日、21日、31日に命日があたっている人がお参りした。
今はさらに短くなったところが多く、
こういう関係は崩れている。
 

祠堂経には、どんなことがあっても、お参りしたらしい…。
もし、お参りしないと、大げさに言えば、
幕藩体制に反抗する家族と見なされた。
お参りすることを幕府・藩がこぞって応援していたのだ。
どこそこの家は、
どこそこのお寺の門徒だから、
どこそこのお寺の祠堂経には必ず参っているはずだ。
ムラごとにお寺があれば、
より、分かりやすくすっきりする。


祠堂経は、もちろん教えを聞き、信心をいただき、
あるいは信後相続を確かめるお参りであるが、
一方で、門徒・檀家・信徒であることー寺檀制度ーを
確かめるという意味を持つお参りでもあったのである。


寺檀制度の成立については、別の機会で触れようと思うが、
とりあえず、かつて、子供向けにこのあたりの雰囲気に触れた文を書いたことがあるので、
その一部を転載する。
ー15年前の文だ。当然見直しがいるのだろう…
テキストのつもり。ー

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「オザ」と真宗門徒(「江戸時代人づくり風土記17・石川」農文協・1991年刊)より 

【生活に生きる宗教語】

つい遊びすぎて成績が下がってしまいました。いつもは勉強のことをあまりくどくど言わない母ですが、今日はさすがに「ヘイゼイゴウジョウが悪いさかいや」と注意されました。「普段ちゃんとしていなから」くらいの意味です。いつもの生活の中で阿弥陀様の本願を信ずるという真宗の教えがヘイゼイゴウジョウの本来の意味で「平生業成」と書きます。「ゴウ(業)がふこ(深)うて」「シャバ(娑婆)やものね」などといった言葉や、人が亡くなったときに「い(往)かしたかね」といった表現も耳にします。「おかげさまで」という感謝の言葉も多分に真宗生活のなかで生まれてきたものです。
弥陀一仏を頼みとし、日がいいとか悪いとかいったいわゆる迷信的なものにとらわれずに仕事に精出したことから「門徒ものしらず」という独特のいい方もあります。
北陸は浄土真宗の教えの盛んなところで、真宗王国や北陸門徒という表現もします。生活のなかで自然に真宗の教えの言葉が用いられているような風土が真宗王国といわれるゆえんなのでしょう。
昭和55年(1980)に石川県教育委員会が調べたところでは、加賀の75の調査地区の内、全部真宗門徒の集落が65?、8割以上が90?におよんでいます。金沢では仏壇はあっても神棚のない家が多くあります。能登は祭りが大変さかんなところで、神棚がないということは一部を除いてありませんが、それでも口能登(くちのと、鹿島郡羽咋郡)では、全寺院数の85?、奥能登(珠洲郡・鳳至郡)では70?が真宗寺院となっています。

真宗の広がり】

北陸には、早い時期から真宗の教えが入り込んでいましたが、蓮如上人が石川・福井県境の吉崎(今の福井県坂井町金津)に滞留してからいっきょにその教えが広がりました。
長享二年(1488)には加賀国一向一揆が起こり、「百姓の持ちたる(ような)国」がおよそ一世紀に亘って歴史の上に登場しました。このように大きな力を持つに至るにはいろいろな理由がありますが、とくに「講」を結んだことが大きな役割を果たしました。
蓮如上人は教えをわかりやすく記した「お文」を各地の講に送り、人びとはお参りのあとに「お文」を拝読して信心を確かめあったのです。
加賀地方能美郡の四講などが古いものといわれています。 
「講」はお斎という共同飲食をともなった勉強会と思えばいいでしょう。

【江戸時代の宗教生活とオザ】

江戸時代に入ってまもなく、どこそこの家はどこそこの寺の門徒という関係を決める寺檀制度が整えられていきます。それによって門徒というのは家をさすようになりました。そうして農業や漁業のあいだの仕事休みには決まってお参りがおこなわ、ますます仏事がさかんになっていきます。いくつかの記録を見てみましょう。
鹿島郡高畠村(今の鹿島町)小林家には、文化11年(1814)に書き留めた「年中行事」という冊子があります。
この冊子のはじめのほうに「正月三日間の御内仏:おないぶつ:のお勤めは舌々:ぜぜ:という早いお勤めをします。三が日はお文は読まないで四日の朝に紐を解きます」
「4日に御内仏の壇ばらい (仏壇にお飾りした鏡餅を下げること) をします」
「5日にはその年が法事にあたっていないかを調べます」
「6日は師匠寺へ参詣します」ー註:師匠寺が遠いー
と毎日のように、仏事に関することが書かれています。これは残りの月においても同じことで、仏事を大切にしているようすがわかります。
江戸時代のおわりごろ、ある村役人が「最近、田休みのころ、祠堂経のお参りが各寺々でつぎつぎにおこなわれていて、農民によっては1ヶ月も2ヶ月もお参りをつづけている人がいる。夜は遅くまで踊りが行われていて、農業に差しつかえが生じなければいいが」と支配者らしい心配を記しているものもあります。
これほど、人の心をとらえてきたのは、身分差のきびしい時代にあって、身分差を超えた教えの内容によることはもちろんですが、多くの「講」と、その実際の場面として「オザ」が大きな働きをしてきました。

以下略。この後【門徒の一年の仏事生活】【地域を越えた仏事】。

※註・真宗門徒 浄土真宗真宗ともいい、鎌倉時代初期に親鸞(1173~1262)によって開かれた宗派です。絶対他力を信じ、一心に念仏するところから、一向宗ともよばれました。門徒は一門のともがらの意味で、特に真宗の信者のことを門徒とよび、門徒宗ともよばれました。
ここまでの註は、「阿弥陀様の本願」「お東さん(石川県ではとすべきところだった)」「蓮如上人」「御内仏」
「祠堂経」ー永代経ともいい、一ヶ月間、お寺でお参りがおこなわれ、親の命日にお参りに行くのが原則でした。期間が長いので、二期に分け、下半期を別経という場合もあります。今は5日間から一週間のお参りであることが多いようです。さらに註、2,3日が多い。
祠堂は本来は、先祖を祀る堂を意味しています。
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教えの道場、本堂の維持・管理は大変だ。
祠堂を上げさせてもらいますので、道場を守り、田休み期にはみ法を聞かせてください、が祠堂をあげる、祠堂経のお参り、の意味だった。
「オザ」と真宗門徒ー暮らしの中の宗教活動(PDF)

自坊でも、、毎日、笑ったり泣いたりしながら、
お説教を聴聞している。