七尾のタンカブサマ(田の神さま)→あえのこと
田、米と共に人々は生き続け、現代にその生命をつないできた。
その米の源、原点に感謝する祈り、喜びの代表的なものが
奥能登のあえのことである。
ところが、この行事は家単位の行事なのだ。
では、家はいつ出来たか?
重要な問題が横たわっている。
平安時代は貴族の記録しかわからないが、貴族の結婚は通い婚だった。
母系社会だったし、別居でもあった。
柳田国男は室町時代に家の成立を推定している。
私は寺檀制度が確立した元禄時代こそが、
今の「家」となった時期ではないかと思っている。
原始から田の神に対する祈りはあったのだろうが、
それが具象化したのはそれほど古くはない
と、睨んでいるのだが…。
むしろ、畠山文化を支え、能登のくにの穀倉地帯を抱えていた七尾付近に
古い行事があったのではないか、と考えても不思議ではない。
その畠山、七尾城山とつながる可能性の高い行事が、
今日の北國新聞に「たんかぶさま」の題で載っていた。
本日の記事
この行事を新聞に始めて紹介したのは、私なのだけど、
七尾に田の神行事が無いとされていたのに、この行事に気づいたのは、
ほんのちょっとしたきっかけだった。
そもそも、七尾には小田吉之丈、塚林祐三、大林昇太郎、松浦五郎、塚林康治氏、
その他多くのすぐれた民俗学者(地域史家)を輩出してきた。
七尾地方史の長い歴史もある。
ところが、町域近くのタンカブサマは紹介されたことがなかった。
七尾市史に関わっていたころ、
誰彼構わず、行事日近くになると、こういう行事はないか?
と聞いて歩いた。
真宗大谷派能登教務所で、当時お勤めになっていた矢田町の高山さんが8日ごろにお萩を供えている、
と話してくださった。
近くの小池川原の木下さんもお萩を供えているという。
その他数軒で、11月8日前後と春の3月8日前後にタンカブサマ行事が認められた。
『図説七尾の歴史と文化』に書き、
新聞にそれに関する記事が載った。
2000年(平成12)11月6日
『図説七尾の歴史と文化』平成11年刊。p271
上の写真。田の神が去来する城山。左の田が高山家の田。
下右。中川原木下家。
左高山家。