「節談説教の風土」(『【大系】日本歴史と芸能』第5巻・平凡社)ー編集担当 内山直三氏

『大系音と映像と文字による日本歴史と芸能 第5巻 民衆宗教の展開 踊る人々』「節談説教の風土」(平凡社)を書いた時の編集担当が内山直三さんだった。

あの年、1991年(平成3)の2月3日に内山さんから原稿依頼があった。

それから10日後の13日に、父は、中学校時代の同級生が経営している七尾の病院に検査入院に入った。
風邪(?)の熱が下がらなかったためである。
14日夜、説教調査・聴き取り。
15~17日ソフトテニスの県代表になったチームを引率し、車で新潟上越市へ。
その前に病院へ寄って父の症状を聞いたところ、6ヶ月ぐらいの入院が必要なのではないかのこと。
新潟にいる間に、教員を辞めなければならないのではないかァ、と考えていた。
そして、19日、本堂で阿弥陀さまと語り合いながら、退職することを決意した。

父に告げると
「そうか、辞めるか…(僧侶だけだと)退屈やぞ」
との答えが返ってきた。

それからは、学校と「春勧化」の行事をこなしながら、
誰の迷惑にもならない時期に
退職願いを出そう…ということだけを考えていたような気がする。

人事がいつから動き出すかを知り合いの校長に聞いたところ、
3月上旬とのことで、28日に県教委に退職願いを提出した。

そのようなバタバタが続く中で、
3月5日に400字詰め原稿用紙40枚を書き上げ
内山さんに送った。
原稿書きの方は別の気力が働いていたのだろう。
あるいは、
モヤモヤとした思いを吹っ切るようなつもりで書いていたのかも知れない。

3月14日夕方、内山さんから電話が入った。
原稿に対するお褒めの言葉があった。
「ところどころに穴開けて…」のところでは、
つい笑ってしまいました。とおっしゃた。

このような細かいところを覚えているのは、
お電話を受け取った時は、

まさに
まもなく父の通夜が始まろうとしていた時だったからである。

「…つい、笑ってしまいました。」
「有り難うございます…。
父が亡くなり、今から通夜ですので、この話はまた後ほど…」
と電話を切ったのだが、
あの時の内山さんの
笑い声からお悔やみへと、
その時の、戸惑った声が耳に残っている。

少し前の3月9日(土曜日)に病院に寄ったとき、
父は「家へ帰るぞ」と、
動かない体を動かそうとした。
11日月曜日、朝6時、
「様子がおかしい」と病院にいる母から電話が入り、
雪道を走らせて七尾に着いたときは、既に息を引き取っていたのだった。

「家へ帰るぞ」の言葉通り、
この世での生を終え、父は家路についた。
 
その後、内山さんとは一度東京で会っている。
その時、僕が編集した本ですと、くださったのが『猿曳き参上』だった。
もう一冊下さったはずだが、もうどの本だったか分からない。
平凡社の本を点検していくと思い出すかも知れないが…。
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内山編集者が手がけた本。

その時、内山さんは、
しきりに「平凡社選書」からの出版を勧めてくださった。
「月刊百科」に連載し、それをまとめる形で一冊にしていくのだという。

新米僧侶で、『中島町史』なども抱えており、
その話しを具体化するような気分も、時間的余裕もなかった。
ただ、選書にするなら、やってみたいイメージは持っていた。
江戸時代に行われていた、真宗由緒寺院巡りを、現代に追体験するというものである。

「春勧化」を考えていたら、
次々と思い出がよみがえってきた。
内山さんとは、その時一度会ったきりだ。

柔らかな物腰で、誠実さあふれる話し方をなさる人だった。
ところが、まもなく、病気で亡くなられたとの話しが伝わってきた。

あの頃の思い出を胸に、
真宗由緒寺院の旅」もいい、
と思い始めている。