『ウォーク万葉』後半ー木ノ浦・高屋、大伴家持伝承ー
15日に書きながら思い出した「ウォーク万葉」。
検索したら、すぐに見つかった。
→「万葉」関係
1号から60号で完結。
その本文編、全てをパソコン画面で読むことが出来る。
実際、前回記した内容や生徒と共に写した調査地の写真などが、
本より鮮明なくらいの画像となっている。
→「ウォーク万葉」
24号に載せた刀禰薬師:珠洲市高屋町
前回の続きを記す。
(後半部)
ー木ノ浦・高屋ー
海士といえば、輪島市の沖にある舳倉島を舞台として活躍する人たちが名高い。
彼女たちは輪島市の海士町を拠点としているところから、
『輪島の海士』と呼ばれて親しまれている。
しかし、今の海びとは、中世末に九州鎌ヶ崎から移り住んだ人々を祖先とするといわれており、
舳倉島に古代の祭祀遺跡などを残したとは、別だと見られている。
気多神社の神が、大陸から舳倉島・輪島・珠洲を経て、
羽咋に来たった神であるとの古伝承や、
一大山岳霊場石動山縁起に、天竺にいた方道仙人が珠洲に住んでから石動山に来たとの話を載せるように、
古くは、大陸から舳倉島・珠洲を結ぶ海のルートがあった。
家持が
『5月14日、興によりて作』った歌にも、珠洲と舳倉島の関係が歌われている。
珠洲の海人の
沖つ御神<みかみ>に
い渡りて
潜<かづ>き取るといふ
鮑<あはび>玉
五百箇<いほち>もがも
はしきよし
妻の命の
衣手の
別れし時よ
ぬばたまの
夜床<よどこ>片去り
朝寝髪
掻きも梳<けづ>らず
出てて来し
月日数<よ>みつつ
嘆くらむ
心なぐさに
ほととぎす
来鳴く五月の
あやめぐさ
花橘に 貫
<ぬ>き交じへ
縵<かずら>にせよと
包みてやらむ
18巻4101
舳倉島は平たく、沖にあるため見ることは出来ないが、
木ノ浦からは丁度、中間地点にある七ツ島が、美しく見渡せる。
中世にはこの付近の人々が舳倉島を領有していたと言われているのである。
狼煙<のろし>からこのあたりまで、海岸線を縫うように散策道が続いている。
木ノ浦の展望台からは、道は幾重にも折れながら下り、一気に海辺に出る。途中に、不老長寿の美女・若狭の白比丘尼が植えたといわれる、徳保の千本椿がある。
きらめく波に誘われ、
高屋の町並みに入ると、まもなく、日吉神社が左手に見えてくる。
その前を通って山に登ると、刀禰薬師と呼ばれる平安期の薬師三尊仏を祀る堂がある。
刀禰は中世、浦々を支配していた人の姓といわれ、
高屋が重要な浦であったことがここにも窺われる。家持伝承
珠洲市三崎町宇治の地名は、京を偲んで家持が命名したと伝承。
この地に菩提寺を建立しようと思っていたが、帰洛の為に、果たせなかったという話がある。
その後、弘法大師が当地を訪れ、
家持の願いを知って一寺を建立。
のち、真宗に転宗したのが本龍寺だという。
家持一行が、輪島・珠洲境の難所にさしかかり、
陸路から船路に切り替えた。
そこに当時名もない小社があったので、
「珠洲の海、吾越えむとす彦神のこころ和めよ辺津の姫神」の歌を奉納し、旅の安全を祈ったという。
幾たびかの変遷を経て、
現在、鳳至郡能都町に祀られている姫滝・火宮両神社の由緒で、
『夫木集』に載る二体月を詠んだ歌が、
町野川流域では、家持の歌と信じられていたこともある。
このように、地域の人々の心に、
ときどき、万葉世界が息づいているのを見いだすことができる。
自然が悠久であることを、
肌で感じられる風土のせいであろう。
「ウォーク万葉」の能登
「ウォーク万葉」の全体は、
1985年1月から1200ヵ所の故地を歩き、詳細に地図化して60号で完結。
15年の長期に渡って発行したとある。
その60号の中で、、能登は次の号に取り上げられている。[ ]内は調査・執筆者。
8号 机島[七尾凍原短歌会]
24号 珠洲[西山郷史・15日と今日の紹介]
36号 舳倉島[編集室]
37号 饒石川[編集室]
60号 志乎路[大阪市宇田正]
その他、越中に関しては
3号、12号、27号、35号、39号、52号、59号に紀行・地図が紹介されている。