「ユートピアに生きる鬼」ー節分ー

節分。
平成10(1998)年、北國新聞文化欄で「節分の鬼」について書いた。
題して「ユートピアに生きる鬼」(PDF)
再掲する。

時に激しく、時にヒタヒタと波打ち寄せる能登には、数多くの寄り神・仏の伝承がある。
神仏が寄り来たるのは、そこに姿を留め人々を救いたいという願いがあってのことである。
もともと日本列島そのものが、東方海上の理想郷であった。
中でも能登は、羽咋磐衝別命〈いわつくわけのみこと〉と犬が協力して作り上げたユートピアであり、
鹿島は神仙思想・常世〈とこよ〉と通じ合う地と意識されていた。
このことを物語るように七尾の東海岸には、常世と往来したといわれる少彦名〈すくなひこな〉神を祀る聖地が多い。
鳳凰が訪れた鳳至(ふげし)には、観音浄土に生息するという鵠〈こう〉の巣(高洲)山もあり、
真珠が採れた珠洲(すず)は、輝きに満ち溢れる珠の洲であった。
能登はまさに古代人の憧れの凝縮した半島であり、
神仏の目当てとなるべき地だったのである。

一方、艮〈うしとら=東北〉の方角が魔軍の侵入口(鬼門)であると考えていた古代の都人は、
自らを守るために幾重にも防御ラインをひいた。
平安京の艮にあたる鞍馬山には最強の毘沙門天が置かれ、
白山・気多〈けた〉・須須〈すず〉の神々がその延長線上にあった。
強訴の度ごとに都に向かった白山神、
将軍地蔵と結びついた気多神、
第六魔天軍と戦った珠洲の神軍は、
さまざまな性格を有する神が担った一つの役割である。

鬼とは、人が感得できないオン(隠)であり、元々はかなり広い概念であった。
それが舞楽・散楽の面と結びついて赤鬼・青鬼のイメージとなっていく。
鬼門があるならば、門の外には鬼が住む。

都中心の見方からは、
ユートピア越の国は忌まわしい鬼の跋扈(ばっこ)する地とされたのである。

確かに能登では、重要な節目に当たる日に、アマメハギや太鼓の打ち手などが、面を付けたり顔に海草を垂らして鬼となる。
しかし、これらの鬼は、なまけ続けているものを奮い立たせたり、敵からムラを守ったという伝説を生み出している。

忌み嫌われるどころか、感謝の対象だったのである。
そういえば、一寸法師も桃太郎も、鬼の試練を乗り越えて、はじめて一人前の若者となった。

さらに猛々(たけだけ)しい猿である猿鬼( 猿神 )も各地に生きている。
能登島伊夜比咩〈いやひめ〉神社に伝わる「猿鬼の角」は伝承のみとなっているようだが、
地域興しに貢献している当目の猿鬼(柳田村)、
彼岸の「お出で祭り」に撒かれる猿の尻をかたどった桃団子(羽咋市酒井町日吉神社)、
旧卯月申の日の行事であった青柏祭(七尾市)、
七日正月行事である片岩の叩き堂行事(珠洲市)などは、
神や修験者によって退治された猿が祀り上げられ、節目ごとに思い出されている。
名こそ鬼であるが、こうしてみると、
先祖が子孫の住む地を訪れるとされる来訪神の性格と極めてよく似ている。
しかも、それらは荒々しさゆえに、大地を刺激し、エネルギーをみなぎらせ豊穣をも約束していくのである。

ユートピアに生きた鬼は、当目の鬼のように最後は救われていく。
有名な吉崎の嫁脅しも。孤独の深さに耐えきれず、鬼となった老婆に救いの声が届いたというエピソードである。

理想郷とは、こうした誰もが抱えている鬼を認め、うなずき合える世界
ーすなわち共生世界ーなのだろう。

ならば、「鬼は外…」は、
どこかに私の鬼門を育てようとする心との、決別の一歩を宣言する叫びでなければなるまい。