1月25日ー「寺正月」の報告 、天神終いー

20日二十日正月で休み日が終わる地域が多い中で、
加賀・能登は、今日を「寺正月」といっており、
2月1日の重ねの正月前ではあるが、正月終(じま)いとしていた。


加賀藩主・前田家の先祖を祀るとされる天神飾り(天神画像や天神堂)は、今日まで飾られた。
それも、朝、早々に仕舞われた。
すなわち、田の神や山の神、お雛様に対する扱いと
同じ気持ちが流れており、正月神とも習合している。


この日は、幕府・徳川家が檀家であった浄土宗の開祖・法然上人の命日が1月25日。
そして、3月25日の蓮如上人とが重なり合うのであるから、
今日が正月中においても、特に重要な日であることは充分うなづける。


となると、今日の日の記憶がどこに残っているのか、
どういう人々がどのように記憶してきたのかが問題となる。


能登地区ではどうなのだろうか?
珠洲市史』
『柳田村史』
『諸岡村史(門前町)』『浦上の歴史(門前町)』『新修門前町史』
田鶴浜の歴史』
『七尾町旧話』『ふるさと飯川(七尾市)』『新修七尾市史』
能登島町史』
『鹿西町史』
『富来町史』
高浜町史』には、この日については触れていない。

聞き取りをしてみたが出てこなかったケースと、
執筆者がそのことに気づかず最初から聞き取り項目に含んでいなかった場合とが考えられる。


天神さんとの関係で報告があるのは、
『内浦町史』
「25日は初天神といい、菅原道真公を祭る。菅公の画像を懸け、燈明、御花、神酒、鏡餅を供えた。菅公は藩主前田家の祖先と伝えている」(今村充夫)
『能都町史』
「25日は天神様を祀る最終日なので、絵像の軸をかけ、ゾウニを食べる」(今村充夫)
輪島市史』
「時国家では25日が藩主先祖の命日であることから、毎月その日は、梅を食べず、焼き味噌を食べる(要約)」(原田正彰)

 
寺正月に触れているのは
田鶴浜町史』
「25日を寺正月とも、寺子の正月ともいい、ヒナカアソビシ(半日休み)にしているが、その意味を知っているものはいない」(清酒時男、隆文子)
中島町史』
「25日は寺正月。やはり小豆粥を作り、午後の半日は休んだ。25日を寺正月というのは、中島に限らず県内どこにおいても認められる。しかし、全国的にはこの日はあまり意識されておらず、加賀藩政下における独自の行事日であった可能性が強い。
鹿島町で天神の正月といっていた地区があり、法然蓮如両上人の忌日でもある。真宗地帯における重要な日、あるいは藩主の信仰である天神の縁日との関係が問われる休み日である。」(西山郷史)
鹿島町史』
「2月25日を寺正月といい、休み日とした(坪川・久乃木・二宮・井田・小竹・尾崎・東馬場・久江・小田中・福田)。二十日正月あるいはこの日を正月の終わりとし、全般的には寺正月という意識は薄い。藤井・高畠では、この日を奴の正月と考えていたようである。蟻ヶ原では天神信仰の盛んな富山県氷見市に近いこともあり、天神様の正月といい、藤井では在所に観音がないにもかかわらず観音様の正月ともいった。観音は天神の本地仏である」(西山郷史)
である。


ちなみに氷見市では天神画像を早くしまいお飾り餅を食べる、が
包丁を使ってはならず、
手でひび割れのところから引き裂いて小さくしていくのだという。


古い風習を色々な形が覆っている。
逆に言えば、整理しなおすことで、
この日の持つ本来の意味が見えてくるのだろう。

全国的に見る1月25日

 その前に全国的にはどうなのだろう。
 『日本年中行事辞典』(角川小辞典)を繙くと、
 「しまい正月」伊豆三宅島。
 「棒祝い」富山県下新川郡黒部市。カタネ棒の正月ともいい、天秤棒を用いる商家・魚屋・建築関係で祝う。
 「初天神北野天満宮
 「御忌(ぎょき)」法然上人の忌日法要。法要が勅命で行われたため御忌名になったという。
 「忌の日」伊豆三宅島。神々が島を飛行する日。首(こーべ)様が首山からやってくるともいう。


 「寺正月」は採録されていない。