ニー、ハオ、「その時歴史は動いた」ー大橋一章氏ー

昭和54年(1979)の夏、2週間中国に行ってきた。


まだ一般の旅行は許可されておらず、
学術調査の名目で訪ねた一行に紛れこんだのである。

 
内容は古代中国の仏教美術研究で、
早稲田大学の美術ゼミの学部・大学院・卒業生の一行についていった。
ついていったとしか書きようがないのは、
私は早稲田大学とは関係がなく、古代美術とも関係がなかった。
その大学でイコンを研究し、当時、県立の資料館で学芸員をしていた友に誘われていったのだ。


私は「ゆったり」が出来ない。
ちょっと出かけるのにも、何かの理由付けをしないと動けない。


そういう性格なので、ポンと話に飛び乗ったのではないはずだ。
高校の教員になって8年目、
卒論(「和讃の文学性について」)・修論(「日本民族意識形成に果たした和歌の役割」行方不明)のために、古典文学や歴史書は随分読んだが、
漢文にはあまり接しなかった。
国語教師として、漢文のふるさとを実際に見ておくのは必要なことだ、
と考え、中国へついて行ったはずだ。


友以外は初めて顔を合わせる20数名と
2週間行動を共にしたのである。


国賓
(になったことはないので分からないのだが、
列車に先に乗っていた満員の乗客を他の車両に移し、
20数名のために一両、それもテーブルに刺繍の鮮やかなのを置いていく、
駅舎での休憩は外部の人と全く出会わない、など)
並みの扱いで、
現地通訳とは別に、
北京大学大学院の学生が2人、
最初から最後まで通訳と日本語の勉強を兼ねながら行動を共にした。



そのうちのお一人、日本文学を研究している呉さんには、
日本へ帰ってから本を送ったり、
しばらく文通が続き、
また一緒に言ったメンバーの中には、
大学を卒業してから輪島塗を学ぶためにしばらく輪島に住んだ人もいたのだが…、

「その時歴史は動いた」大橋一章氏

27年経ってみると、友以外では、賀状のみのやりとりをしている方が2人いるだけになってしまった。
そのお一人が、引率の事務その他一切をなさっていた当時の助手・大橋一章さんである。

 
大橋さんの賀状に、1月18日、「その時歴史は動いた」(NHK)に出ます。
とあった。


懐かしい。
でも会ったのはその時の2週間だけである。


どうなっておいでるだろう。
TVを見た後では、印象を書かないとまずい。
先に書き上げておけばいい。
これから、27年前に一緒に旅行した人がTVに出ます。
と書こうとしたのだが、


思い出をたぐり寄せているあいだに、
「その時」が…始まってしまった。

27年たって…
上品な先生になっておられる…


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写真は二枚とも1979年・昭和54年

竜門で撮影する学生(中程の黒帽子。レンズはこちらを向いている。後ろの川は黄河)。
咸陽では、通訳の方が、この先(奥地)に行った日本人は3人しかいません。
平山さんでしょう、
井上さんでしょう(もう一人は忘れた、川口久雄氏だったかも知れない)」。
誰のことかと思えば平山郁夫井上靖のことだった。


そういう時代なので、外国人自体が珍しい。
遠くに人だかりが出来、危なくなさそうな外人(我々)のようだとなると、近づいてこられる。
まして、カメラは珍しい。
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ここを訪ねた人は、その後もそうおいでにならないのではないか。巩(キョウ)県の北魏石窟寺院。
一帯が学校になっていて、石窟を区分けした中に校長室があった。


黄河の浮き橋を渡らないと辿り着けないため、
人民解放軍ジープが来ていた。
ジープで行くグループ。
ジープの折り返しを待っていくグループ。
歩いていくグループに分かれて目的地に向かった。
途中でジープが故障し、皆歩いて石窟寺院にたどり着いた。
のだったなァ…。