修士論文の行方ー「円空」の和歌ー

正・続群書類従や日本仏教全書などからカードを作り、
塵添埃壒囊〈あいのう〉抄や清輔袋草紙の諸説に頷きながら修士論文をまとめた。
その修論が手元にないのだから、
下書きの下書きを綴じたものから想像するしかないのだが、
論文名は「宗教歌の研究ー日本民族意識形成に果した和歌の機能ー」。


この壮大にして、大上段に構えたタイトルをつけた論文は、
確か原稿用紙で約180枚。
颯爽と先生の元に届けられるはずだった。


ところが作業日程の読みを間違えたのである。
間に合わない。
徹夜と何も食べないでひたすら原稿用紙を埋めていったが、
間に合わない。
締め切り当日に下宿に出入りしていた同志社大学の後輩が遊びに来たので、
下書きを筆写してもらうなどして、
なんとか、原稿の束が出来た。


その時、研究室から下宿に電話が入り、下宿のおばさんが呼びに来た。
立てない。
腰が抜けるというのはああいう状態なのだろう。
それこそ、よろろ、よろろと壁伝いに電話口まで行くと、
当時助手だった佐々木令信さんからの電話だった。


「何しとる!間に合わんぞ。
皆、(原稿を綴じるための)千枚通しを用意して待っとる…」
といった内容だった。
どう答えたか覚えていない。
腰が抜けて歩けない、とでも言ったのだろうか。


「タクシーを回す。乗ってこい」。
何食も抜いての腰砕けだから、よろろろ、はなおらない。
崩れるようにタクシーに乗り込み、研究室にたどり着き、
本当に何人かの学部生さんたちが千枚通しで穴を通してくれ、
製本作りを何年も指導してきた助手さんが、
がっちりと和綴じの本にして
教務に、ギリギリのタイミングで届けてくれたのだ。
 

どれだけの日が経ってからだったろうか、論文の口頭試問があった。


待ち時間の間に、先輩たちが試問を受ける際の心構えを伝受してくれる。


彼らが何度も言ったのが、


部屋へはいると先生方が向こう側に座っていて、
入口側に学生の机と椅子が用意されている。


座った後で、先生から論文を渡される。


もし、先に机の上に論文が置いてあったら、
試問するまでもなく
その論文は通らなかった、ということなので、
論文を持って帰ってこなければならない。


という話。


順番が来た。


激励の声を背に、試問室へ入った。


机の上に論文が置いてある


ではないか…。


立ちすくむ私に、
先生が、どうぞ、
と座ることを勧めてくださった。


あとで、誤字脱字が多く通せないという意見のなかで、
主任の五来重〈ごらいしげる〉先生ーがフォローしてくださり、
最低点で通りましたよ、と先生が教えてくださった。


それ以来、その論文に出会っていない。
提出したのだから、教務かどこかに保管されているのだろう。
と思っていた。


無事に修史課程を送り出していただいて、
私はその春から石川県の高校教員として勤めだした。



先生がお元気な間、ほぼ毎年、先生宅を訪ねた。

教員となって最初の年の暮れに先生宅を訪れた時、
先生は「これに君の論文を使わせてもらいましたよ」
と一冊の冊子をくださった。
それが、
『異端の放浪者 円空』だった。

『異端の放浪者 円空』 五来重

その年(昭和47、1972年)の10月に朝日新聞が大阪そごうで開催した「円空・木喰展」の解説書である。
先生が指導なさって開かれた旨が書かれており、
先生が引用したとおっしゃたのは、「三、異端の放浪者の勧進と和歌」の部分。

貴族のもてあそんだ和歌の尺度で異端者円空の歌を評価することはあやまりである。

おそらく彼の歌は…仏にだけは聞いてもらおうとした歌ばかりである。

われわれは和歌というものにこのようなジャンルがあって、巧拙の評価を許さない世界があることを感ずるのである

(頁が打ってない)
のあたりを指さされ、


円空がなぜ、あんな下手な歌をたくさん詠んだのか、君の論文で分かりましたよ。」ともおっしゃった。


修論60点でも、
いいところもあったのだ。

f:id:umiyamabusi:20060120150736j:image
写真:後藤英夫氏。

本の後ろに、
12月27日先生から頂いた旨の書き込みがある。
さらに、先生が「君のような人を弁護しておきましたよ。」
とおっしゃりながら下さった旨もかいてある。
副題が「異端の放浪者」。


当時の私を先生がそのように思っておられたとすると、
若さであちこちにぶつかっていた…のだ
としか言いようがない。


今は、「こたつの中の小狸」だ。
老いたとしか言いようがない。

消えた修論

数年前、修士を終えた後輩と話していたら、
修論は返ってくるのが普通で、それぞれが保管している、
というのである。


教務にあるのだろう、
というのは返ってこなかったからそう思いこんでいただけで、
皆、自分の修論を持っているという。


先生は、10数年前に亡くなられ、
蔵書がいっぱいつまった上賀茂の家もなくなくなった。


私にとって数々の思い出がつまっている論文は、
一体どこにあるのだろう。