世間虚仮

唯仏是真。「天寿国繍帳曼荼羅」に織り込まれた、
聖徳太子の言葉と言われている金言。


おそらくあれほど充実した日々を送られた方は他にないだろうと思われる太子でさえ、虚仮と受け止められた世だ。
深刻に考えず、肩の力を抜いて…
というところにつながっていくのだろう。


今日読んだ週刊誌に森有正の文章の引用が載っていた。

森有正ー人生ー 

人生とは、

明かりをつけた部屋の窓から飛び込んできた鳥が、直後もうひとつの窓に消えてしまう、その一瞬の影なのだ。

朝露、カゲロウを文章化するとこうなるのかな、と思った。


そう思いながら哲学なさったのだろう。
どこかで覚めた、あるいはニヒルな、を抱えていないと
『遙かなノートルダム』とか『いかに生きるか』などは書けないのでは、とも感じた。


だけど、性癖というか、癖というか、気づいてしまうというか、人にはそれぞれの無意識に近い、グチグチがある。


私の場合、その一つに、字や語句の間違いに結構きづいてしまう、というのがある。
今から思うと、何も意味がないような気がするのだが、教科書を選んだ後、間違いがないかを捜すのが習癖になっていた。


問題集になると、まして…なのだ。
ある著名な問題集出版社の問題で、文学史の解答を記号で記すのがあってその記号を反対に読んだら、アナタスキヨ…とつながっていき、営業マンに注意したり、


その出版社の本だと言えば、それが原点になる程有名な出版社が出した文学大系の月報に、
江戸で詠んだ句の「本願寺」の解説が、東、西本願寺になっていたので、
江戸では、浅草本願寺を単に「本願寺」と言ったはずです、と指摘したり、
仏教文学全集の優婆夷(うばい)・優婆塞(うばそく)を男女反対にして説明している文に出会ってしまったり…。


どうしたか…。
著名な出版社だ、再刊の時には直して貰おう、と葉書を出した。
前者は著者ご本人から、そうだと思います、とご返事が届き、
後者は編集者から、返事が来たのだが、随分前のことなので内容までは覚えていない。


人のミスに気づき、気になる、と言うことは、
自分が犯した場合、倍ほどに、また長々と気になってしまう、とあいなる。


今度も犯した。
それをたとえれば、今まで出会ったり、回りにおいでる「上戸さん」が「じょうこさん」だったため、「上戸」さんという俳優を、読みにくいだろうからと「じょうこ」と振り仮名を振って出版したあとに、
あなたはTVを見てないから知らなかったかも知れないが、あの人は「うえど」というのだよ、
と知った。そんなレベルの間違いなのだ。


ウーム…。世間虚仮。


混乱しているのは分かるが、そういうところで用いるでない…!(タイシ)