『能登国三十三観音のたび』…その後
16日に出来た本は、綺麗な仕上がりになった。
最初の予定は、100ページ、新書/B6白黒、ガイドブックの感じだったのが、
A5:152p全カラー、
表紙構成は西のぼる氏にお願いした。
表紙が綺麗なので、献本用の封筒詰めも楽しい。
献本の短冊、
この本を作るための調査中に新聞に取り上げられた記事の縮小コピー。
それに、調査協力者へのお礼文、あるいは、知人達への献本用挨拶文を一組にし、
約80冊分を封筒に詰めていった。
一年以上かかった調査、
写真撮影の折の光景、
お世話になった方々の姿、
そういった思い出が次々と浮かんでくる。
二つの鹿渡島
七尾市鵜浦町の鹿渡島観音。
能登国33観音札所の4番札所は、椿森と鹿渡島観音の2カ所ある。
鹿渡島観音だから、観音のおいでになる島が「鹿渡島」。
霊鹿が島へ渡ったなどの様々な伝説も、その島が鹿渡島であることを物語っている。
今まで何度も島へ行き、話も聞き、文献も見てきた。
確かにそこでは観音島となっていた。
鹿渡島の別名、通り名が観音島なんだろうと深く考えないで原稿にした。
それで、本にも、丁寧に鹿渡島は「周囲約650㍍の島」写真キャプションに「鹿渡島。中央に観音堂がある」さらに「鹿渡島付近の七軒(現在)によって守られ続けてきた…」と書いた。
ところで、鵜祭・鵜捕部の集落も鹿渡島である。
なんだかごちゃごちゃしてきたが、
鵜浦町には小字に山崎、中浦、川尻、鹿渡島があって島がついてはいるものの、
鹿渡島は一エリアだったのだ。
そんなのあり?
と思いを巡らすと。珠洲市でも蛸島は町名で島は弁天島。
輪島も市の名になっている。
鹿児島に至っては県名だ。島はなくとも地域はある。
小字といえども、敢えて島を別名にしているのだろう。
となれば、現在名の観音島にしなくちゃならないのか…。
しかし、つい最近、このように言い出したのであれば…
見苦しくも、伊能忠敬地図の次に作られた近代測量法の元での、陸軍測量部が明治40何年かに作った地図をひっぱりだして見た。
そこでも観音島になっている。
こうなったら、観音島は元は鹿渡島で、
鹿渡島名に戻るのがいいのですがね…などとうそぶいてはいられない。
せめて、お世話になった方々や、鹿渡島付近の関係者には、間違いました。
訂正です。を同封しなくちゃなるまい。
住宅地図その他の地図で、近くの「観音埼崎灯台」が「観音崎灯台」になっているけど、
「埼」が正しいのではないですか、と、海上保安庁にまで電話して確かめて「埼」を使ったくらい、
正確を期したつもりでいたのだ。
間違いに気づいたのなら、出来るだけ改めなければならない…と
14日の時点で、作っておいた訂正文も同封し、綺麗に封をしていったのである。
最終稿では、その部分がp16とp18だった。
70部ほど封筒詰めしてから、念のために確かめると、
そのページがp28とp30に動いているではないか…。
最後の最後に、目次やら何かを入れ替え
凝った本を追求したらしい。
封筒貼り内職の気持ち
あーあー。
テープを引き剥ぎ、訂正をもう一度作り直し、綺麗に目張りをしたのをガチャガチャにしながら封をし、
もう時間は午前0時とっくに回り…、
その時、
はっきり覚えていないが映画「路傍の石」かなにかで、封筒貼りの内職している母の手伝いをしていた少年と母とのシーンが浮かんできた。
少年「母ちゃん手伝うよ」。
母 「有り難う、お前にも苦労をかけるね…」
二人ともせっせと封筒を貼り、
ふと母が少年が貼った封筒をてにとって見ると、
上に来るはずの重ね部分を下にしてのり付けをしている。
涙をこらえながら、母はのり付けされた封を開き、のり付けし直していく。
そんなシーンを思い浮かべる作業になった…、
でも、ようやく終わったァの安堵感の方が強く、
吹雪の音も励ましの音に聞こえるような、張り替え作業…が続いたのだった。
※写真。鹿渡島の観音島。ここに鹿渡島観音が在す。
後で、『図説 七尾の歴史と文化』を見たら、
「鹿渡島の観音様」と題して
「鹿渡島は…周囲300㍍ほどの小さな島で「鹿渡島観音」でよく知られた島である。」と書いてある。
執筆なさったのは、この島近くにお生まれになった地域史家なので、観音島は鹿渡島でも差し支えがないのだろう。