「絶対に」と「私の知る限りでは…」の差ー29日の餅に関してー

今日、一冊の季刊誌が届いた。

先ずエッセイから。
すごく、いいエッセーがあった。
タイトルにもう一工夫あれば、ファンが一気に増える、と思わせるライターの出現。


一方、短い文なのにつかえて読み進めることが出来ないエッセーがあった。
二度目に目を通すと、案外すーと行った。
それは、信時潔を扱ったエッセイで、
ここには取り上げられていないが、
その作曲家が作曲した校歌が県内に少なくとも二校ある。
信時潔を取り上げるのなら、
地域雑誌なのだから県内との関わりも紹介して欲しいと思いつつ読んだ。
ちなみに、一校の方・羽咋工業高校の作詞は佐藤春夫で、
このコンビはすごい。
羽工生は、
そのことを知って卒業していくのだろうか?

「絶対に」は絶対ない

雑誌の対談を読んでいたら、気になる表現があった。


思想、生き方、人生、お説教などは、頷き、うなづき、聞いていくべきだと思う。
一方、歴史、民俗などは、曖昧さや調査不足に対しては、できるだけ批判し、より正確を期すべきだと思っている。


という考えの元で、
ある学者が金沢では、餅を搗くのは12月25日頃で、
「クモチといって」九は苦に通じるから29日には絶対に餅はつきませんね」と発言している。


「私の聞いた限りでは」、
出来れば「どこどこで聞いた限りでは」、
更に「何年頃に聞いたのでは…」ならなおよいのだが、
「絶対に」ということは、ない。


このことについては、
別の地域で29日に餅を搗くことを聞き知っており、
活字で報告もしている(新修『鹿島町史』)ので、
知らないのかよ、
オイオイと思ったのだが、
もうほとんど餅をつかなくなった現在、
「絶対に」搗かなかっただけが
残っていくのは
まずい…。



では、どこに報告されているのか、
関係文献を挙げる。

餅を搗く日

金沢市史』
「自前の(餅を搗く)場合は29日は苦の餅として。
また真宗信徒の中には28日は精進餅(親鸞の忌日に搗いた餅)として避ける場合がある」。
とここでは「場合がある」。
「正月餅は苦をつくといって29日に餅をつかない」平坦地南部p440、
この他の地区では聞き取ることが出来なかったらしい。


鹿島町史』
「餅を「搗く日は、ほとんど30日で、
商家では25、6日頃(高畠)、早い家でも27,8日頃であった。
……29日に搗く餅を「苦の餅」といって嫌ったのは、坪川(以下5集落)で、他地区では、あまり気にかけておらず、
その理由を真宗教義で説明したり(小田中)、
逆に「苦に勝つ」(井田)、「苦を潰さんか」(最勝講・さいすこう)と、敢えて搗く家もある。」


中島町史』
「29日は苦を連想することから避ける人が多く、28,30,31日にそれぞれの家の事情でついた」

能登島町史』
「早いところでは25日すぎから餅つきにかかる。28日、30日が多い。
29日ははクノモチ(苦の餅)と言い、一年中苦しむと言って嫌った」



少し説明を加えると
29日は一般的に避けたと書いた中島、能登島に対し、
鹿島は全地区を悉皆調査をした。
そこに、その日を選んで餅を搗いたという事例があったのだ。


金沢が「絶対」なら、
鹿島とどこがどう違うのかを明らかにしなければならない。
研究者の肩書きで語るということは、
そこまでを語らなければならないのだ。

安易に「絶対」などは、使ってはならない。 

ペンを入れる

ところで、読者を想定し、編集者がインパクトを与えるために、そのような言葉にする場合もあるのかも知れない。
知り合いのライターが、「仁王のように」と書いたら、「仁王のように、仁王立ちして」と直した編集者がいたという。


私もかつて「瑩山〈けいざん〉禅師は、再三瑞夢を見」と書いたところ、
出来てきた雑誌に、
「瑩山禅師は、再三おめでたい夢を見」となっていたことがあった。
あまりに、そこだけトーンが違うので、
「おめでたい夢を見た瑩山禅師」
「おめでたい…」と想像が移っていき、
一人笑ってしまったことがある。


そういうこともあるので、なんとも言えないが…、
どういう立場であっても、
何も知らない私ですが、から、
話を始めなければならないのだろう…。