若山街道ー若山荘と黒丸家、山口誓子ー法政大学中世史研究会

久しぶりに車で八太郎峠を越えた。


最近は大谷峠を越えて海岸線の道を走ることが多い。
海が見たくて、というと綺麗なのだが、
日暮れてから車を走らせることが多いため、
紅葉も見えないし、
曲がり道が続く八太郎峠道より、
どうしても整備が進んでいる大谷峠道を行く。


八太郎峠越え道は、若山川に沿って続く古くからの道で、
若山荘の中心地域。
近世にも20ヶ村があり、これらの村々は、現在も大字になっている。


歴史が古い道だけあって、走らせている間中いつも、
景観の様々な背景が頭をよぎる。

山口誓子

例えば、そこを曲がったおうちは、
山口誓子の祖父の実家だ。


そういえば、曲がり道を間違えて、
婦人会(当時はこういっていました)を案内したとき
見つけることが出来なかったなァ、とか、雑多なことが浮かんでくる。

黒丸家

特に多くの思い出があるのが、黒丸家界隈だ。
9×6間〈けん〉間取りの豪農。国の重文である。
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能登最大の荘園 若山荘を歩く』
黒丸家が表紙に用いられている図説。
石川県立歴史博物館:平成12年。


1984(昭和59)年8月26(日)、27日(月)
法政大学の若山荘研究会というサークルーの学生が
サークル指導の先生と能登を訪ねてきたことがあった。


あの時、黒丸家付近の景観を目の当たりにした学生の何人かが、感嘆の声をあげ、
「中世だ!」と叫んだのである。


誇らしい気分になった。

法住寺文書

黒丸家付近の景観を見て
わー!中世だ…、
と感嘆の声をあげた法政大学の学生たち
その学生たちを
東四柳史明氏と一緒に案内した時、
珠洲市史』第2巻(昭和53年刊)に影写本でしか紹介されなかった「法住寺文書」が、
法住寺に全て大切に保管されていることも分かったのだった。
1984(昭和59)年8月26日のことである。


その文書群は、法住寺宝物庫に、
誰でも見ることが出来るよう綺麗に並べられていた。
文書に出会ったとき、東四柳氏と顔を見合わせ、しばらくは声が出なかった。


本物だ…、
ぐらいはつぶやいていたのかも知れない…。


今は、「珠洲市文化財」を始め、
中世関係の本に文書の写真が収載されているが、
まず『珠洲市史』から…という人にとっては、
法住寺文書は、東大影写本でしか知ることが出来ない文書、
と思うかも知れない。


当時の住職も、
編さん室長も、亡くなられて久しい。


お二人からお話しを聞いた者として、
そこで聞いたきたいきさつは、
語り伝えるべきことなのだと思う。


お二方は、どちらも珠洲の歴史をしっかり伝え残そうとなさっていた。


なのに市史に文書は載らなかった。


強いていうなら…、
降り積もった雪が、文書を市史に載せなかったのだ。


間もなく、峠に雪がやってくる。

能登のくに 半島の民俗と歴史

能登のくに 半島の民俗と歴史

『若山荘を歩く』と共に、若山荘に触れている『能登のくにー半島の風土と歴史ー』2003年:北國新聞社刊。