『妙好人一茶』 一茶の里
2014年9月13日(土)
一茶の里を訪ねた。
妙好人千代尼と一茶を書くためである。
二人は誰でも知っている身近な妙好人なのに、妙好人らしさがどこにあるのか、知られていなかった。特に千代尼にがそうだったので、千代尼を書いた。
同じ俳人として、千代尼・一茶をまとめればインパクトもあるようで、同時に二人を調べた。
ただ、元禄の千代、化政期の一茶では、真宗の広がりようが違いすぎており、
千代は句から妙好人に広げていかなければならないのに、一茶には膨大な句・記録があり、むしろ絞らないとならない。
千代を取り上げた人はなかったが、一茶は早島鏡正、大桑斉といった碩学が書いておられる。お二方の書かれたものを分析して納得できればあえて一茶まで手をのばすことはない。
私が今まで書いたことは、誰に聞いても分からないので、なら調べて残しておこう…と書くスタンスだったので、30項目ぐらいに分類してはあったが、その項目も見直さないでいた。
ところが、とも同行の視点からは、あり得ないタイトル「父の終焉日記」が、全く疑問視されないで、真宗関係者の書いたものに用いられているのである。
しかも、『新撰妙好人列伝』(藤秀璻)に「俳諧寺一茶」があるのに、最近の書物『体系真宗史料』ー妙好人伝ーに一茶が無く、―近世門徒伝ーというカテゴリーに日記として「父の終焉日記」が入っている。この一茶の文が日記なのかどうかも含め説明がない。
これは、問うていかなくてはなるまい…と思った。
『妙好人千代尼』と同様、です、ます調でとも同行の視点で『妙好人 一茶』を下書きする。その前に、6年前の一茶の里の文を掲載し、野尻湖の写真をテーマ―写真として使っていきます。
元へ戻って、
2014年9月13日(土)
斑尾のホテルに泊まり、一茶の里ー信濃町柏原ーを歩いた。
夜斑尾へ入ったので、真っ暗な山道が続き、熊しかいない山を目指しているようでビビった。
麓に野尻湖を抱えている。
野尻湖
一茶翁終焉の地
終焉の地にある俳諧寺位牌堂
法名 釈一茶 不退位 文政十丁亥 霜月十九日
同堂の奉献額に、知った名を見つけた。
小松砂丘氏である。
砂丘氏は春日神社境内にある万葉歌碑の揮毫者で、『廓の女』のモデルの兄。
句は「加賀笠や信濃の山は秋早やき」。
4人目に山口誓子、西山白雲郷という人もおいでる。
俳諧寺。一茶記念館近く。
句碑の句は「初夢に古卿を見て涙かな」
小林家墓地にある一茶墓の案内板。
兎が可愛いですね、と記念館の人に言ったら、
リスです、と言われた。
横山尚秀師のお寺ー由緒地巡りー7月29日(水)
横山尚秀師は、昭和50年刊の『柳田村史』に「寺院信仰」をお書きになっている。肩書きには、「(故)大谷大学助教授」とある。
29日、師のお寺で坊守会があり、講義をしてきた。
学統から言えば、鈴木大拙~横川顕正~横山尚秀になるのだろう。
ひょんなことから、横川顕正師のお子さん香智子が著された『善正寺』という書籍が手に入った。
そこに、横山尚秀師が登場する。
ご子息の涼秀さんも本文に出てくるが、この方はいわゆる内浦五校と言われていたエリアで英語を教えておいでになっていた、高校教師の先輩である。
次男の廣君が高校の同窓生で親しくしており、彼は谷大の真宗学に進んだ。
唯一の真宗学・谷大関係同級生で大谷の大学院へ進んで僧侶教師の資格をとろう・とるしか無いとき目標を定めたとき、何を読めばいいのか分からず彼を頼った。
その時勧めてくれたのが『親鸞の研究ー親鸞における信と研究―』(二葉憲香著)で、それ以来今に至るまで、何かあれば尋ねている。
付け加えると、まだこの本を読み終えていない。
それはそうとして…話が前後するのだけれど、
彼の高校時代に、福井県で私鉄電鉄の事故があり、その時御尊父・尚秀師が巻き込まれ亡くなられたのだ(享年五十歳)。
『柳田村史』のあとがきに「仏教篇の執筆を担当された故横山尚秀先生には、玉稿なった直後不慮の事故で急逝されました。したがって本稿は先生の遺稿となった次第で…」とある。
さまざまな感慨はおいて、
学者が育ったお寺で、その人を想い偲んできた。
尚秀師のお寺、徳宝寺からの柳田風景
13、とも同行の順拝・たび「宗祖聖人御旧跡巡拝」⑭―豊四郎順拝61~65 文化五年-1808 若州遠敷~西湖
61 若州 大野飛川村 小谷山
62 若州 知見村 光久寺
63 若州西津 念正寺
64 若州 新道村 眞覺寺
65 西湖嶋 慈敬寺
今朝(20200727)の記事ー真宗王国御影が礎―、→御影巡回より
今朝の北陸中日新聞。大きく「真宗王国御影が礎」の記事が載っていた。
故・大桑斉さんの成果『本願寺教如教団形成史論』についての記事である。
写真には小松教区提供の能美郡四講に授与された「和朝親鸞聖人」「顕如上人」が用いられている。
カラーの記事なのだが大きすぎて私のA4スキャナーには取り込めないので、縮小コピーを乗せた。
根上町史調査の折、四講にお参りした。その時の講師が大桑先生だった。
何年か後、私にも四講講師の声がかかったことがあったが、話せば長くなる理由でお断りした。
そのときの関係者は、いずれもこの世を去っておられる。
今日は親鸞聖人お逮夜日。
しみじみとした朝を迎えてる。
これは、オ―なのだが、昨日、メールを復活できた。
中古パソコンに買い換え(うまくいかず)、現パソコンを初期化し何もかも初期にして、今一度、複雑にしたのを何十年前かに使っていた設定(といってもパスワードを変えただけだが)に戻したところ、使えるようになった。
5月からわずか3月だったけれど、私にメールを書いた人の文は、送付されたことになっっていて、こちらではそれを開くことができなかったのだから、個人的なつながりがややこしくなる。昨日は、何人かの『とも同行の真宗文化』の感想に、返事を書いていて一日が過ぎた。
そこで新聞記事へ。
私も、『蓮如と真宗行事』に御影の授与がどうなっているか調べたことがあった。30年以上前のことである。
とも同行の真宗は、教如上人から乗如上人(歓喜光院殿)に至って花開く。
御影の特色もそのときに書いているのだが、授与状況分だけ紹介する。