能登を知るー逢坂~真浦~曽々木

逢坂隧道口付近からの夕景ー輪島方面

f:id:umiyamabusi:20210131191113j:plain

逢坂隧道真浦口付近から 2020年11月28日午後5時17分撮影

 

f:id:umiyamabusi:20210131192919j:plain

先端部・ツバ崎・千畳敷の夕日

f:id:umiyamabusi:20210131191747j:plain

『歳月能登』御園直太郎写真集1993年刊。千畳敷の落日―この写真を用いたポスターが1962年国際観光ポスターコンクールで最優秀賞を受賞した。実際の撮影は1962年(昭和37年)3月。

能登沖地震以降、千畳敷のある岬(ツバ崎)は立ち入りが禁止されている。

 

逢坂越えの三トンネル

真浦と仁江を結ぶ逢坂・ツバ崎には、珍しい三つのトンネルがある。

f:id:umiyamabusi:20210131193412j:plain

左先端から先が千畳敷。その右とさらに右(距離は70メートル程)に現在用いられているトンネルがある。

写真は現トンネル左、昔の道と交錯するあたりから撮った。

ところで、旧トンネルが完成したのは昭和30年のことで、それまではくびれたように見える峠道をたどった。そこにもトンネルがあるという。

 

 この一㎞程の峠道は、近世の紀行文には必ず難所と記され、いつからか逢坂と表記するようになったが、元々這ってしか進めないところから這坂の字が当てられていた。
 紀行文には朴坂・宝坂とも記されている。
 特に仁江側が急坂で、人々は「仁江の這坂」といって恐れていた。
 途中に三昧跡があり、急坂を下って国道と交わる地点に六地蔵石像が安置されている。

 

 

(『歴史の道調査報告書 第4集 能登街道Ⅱ』石川県教育委員会 平成9
年刊 この部分西山執筆)

 

真浦 岩山 

f:id:umiyamabusi:20210131200318j:plain

千畳敷ゴジラ岩やトトロ岩、鯖尾岩、亀岩、ジジ岩、ババ岩、窓岩などー

能登の外浦海岸は、岩の芸術にあふれている。

ほとんど知られていないと思うのだが、内陸部にも、岩の織りなす珍しい光景がある。

ここなどは、森あるいは田園感覚で足を踏み入れるとびっくりする。

2010年(平成22年)11月10日撮影。

 

水原秋桜子句碑

f:id:umiyamabusi:20210131202230j:plain

この岩が、日本一大きな句碑だと言われている「水原秋桜子」の句碑。岩の右手前に2人の人が見上げている。2013年(平成25年)5月23日撮影。

 

f:id:umiyamabusi:20210131201948j:plain

碑文は「雁来るや 岩礁ならふ(並ぶ) 七ツ島 秋桜子」

 ※メモ 秋桜子 馬酔木(あしび)主宰。俳人協会会長。句碑・昭和42年」10月8日。句は昭和31年(1956年)能登吟行時の時の句(『石川県立飯田高等学校百周年記念誌 伝説とロマンの里』319頁』)

 

真浦には地球の歴史を物語るという鯖尾岩、付近から切り取ってこの碑の下の広場に移した帆立岩があり、

かつてこの地にあった塩釜が、仙台の塩竈神社境内に移されてあった。

その塩釜に出会ったのは偶然で、テニス部の鳥毛兄弟、同じ日置中出身の机谷・鴨谷ペアたちと仙台インターハイに行った折、試合後、松島・瑞巌寺塩竈神社を見学した。その時、塩竈神社境内の目立つ所に、真浦にあった塩釜が仙台の地にあるいわれを書いた説明札と共に展示されていたのである。

数年前、当時の珠洲塩田村館長の横道さんが、塩竈神社へ見に行ったのだが、見当たらなかったとのこと。なら、せめて写真を…と探すのだが見つからない。

塩釜が錆びるのは早く、引率したのは1990年(平成2年)で、もう31年も経っている。

やっぱり写真だけでも…だ。

 

真浦由来の重要なものにもう一つ。「ドウブネ」(一艘。真脇遺跡公園、遠島山の能登町郷土館・民俗館前に保存されているドウブネは国指定になっている)がある。

 

曽々木海岸・窓岩

f:id:umiyamabusi:20210131205738j:plain

岩の窓は義経の放った矢によってだとか、この海岸、岩は岩倉観音同所の白山神が、まずこの岩へやってきて岩倉山に鎮座したとか、時代ごとに折り重なるほどの伝説がある。

 

それで、曽々木は置いておいて、

『歴史の道調査報告書 第4集 能登街道Ⅱ』の真浦部分補足。

 浜道は、上道に登る地点より、さらに二八〇m先で国道と分かれ右に入る。
一四〇m先の山腹に海月庵があり、地滑り時に当地に残った数戸の内の一軒と伝承し、寛文一〇年(一六七〇)の村御印や安政二年(一八五五)の真浦村飛脚札を所
蔵、天保七年(「八三六)には宝田敬が『能州日暦』を著すおりに泊まった南家、御塩蔵跡地、真浦の草分けで明治六年に退転した天正期扶持百姓の刀祢家など
が軒を並べていた。

能登十七作物名薬師の一つである浜上薬師も刀祢家上の台地にあったと推測される。
浜道は、現在逢坂燧道口で国道と交わるが、昭和三〇年に現隧道より七〇mツバ崎寄りの旧隧道が完成するまでは峠道をたどった。
峠へは、井上商店横を右に折れてすぐ左折し、若子祭りを伝える真浦白山神社の東下を通って神社後方の道に出、さらに一四〇m西の地点から峠越えをした。
上道もジョウノコシへ向かう道を左に折れ、神社西上から同じところに出た。
浜からは四二〇m奥になる。
この一㎞程の峠道は、近世の紀行文には必ず難所と記され、いつからか逢坂と表記するようになったが、元々這ってしか進めないところから這坂の字が当てられていた。
紀行文には朴坂・宝坂とも記されている。
特に仁江側が急坂で、人々は「仁江の這坂」といって恐れていた。
途中に三昧跡があり、急坂を下って国道と交わる地点に六地蔵石像が安置されている。

 〈追記〉

1990年(平成2年)8月6日撮影 塩竈神社の写真が見つかった。

f:id:umiyamabusi:20210201092258j:plain

宮城県塩竈神社境内

説明板

煎熬(せんごう)用平釜

 この釜は石川県能登半島 (揚浜式塩田)で 昔使われていたもので 濃い塩水(かん水)を煮て塩をとったものです。 

 とある。真浦も、真浦観光センターーホテルニューまうらーにも一言も触れていないが、ニューまうらの入り口で見たか、その頃には経緯をたどれたので、説明板に書いてあった、と記憶がかぶさっていたもののようだ。

 でも、写真が出てきてよかった。非常に大きな平釜である。すでに錆による劣化が進んでおり、下の方も崩れていく寸前のようだ。ーどうなったのだろう。

【メモ】ホテルニューまうら=1963(昭和38)年開業。北陸鉄道の子会社「真浦観光センター」が運営。地元食材を生かした「あえのこと料理」、「波の花」が見られる海岸近くのロケーションなどが人気を集めた。プロが選ぶ日本旅館100選に何度も入賞した。ピークの91年は年間6万5000人が利用。バブル崩壊能登沖地震、ナホトカ号重油流出事故などで客足が減り2000年12月廃業した。(北陸中日新聞」2020年6月21日より)