28日親鸞聖人ご命日

 

 


来月28日は御正当。

一ヶ月前のこの日、各寺で報恩講満座のお参りが行われている。

当寺は来月4日~8日。

この日は、午前中輪島石休場の報恩講

午後門前吉浦の報恩講にお参りする尊い縁を得た。

かつて坊守会でお会いしていた懐かしい方々とも会うことが出来た。

 

写真は帰りの日本海夕景。

爾時佛告 長老舎利弗 従是西方 過十万億佛土

有世界 名曰極楽 其土有佛 

阿弥陀 今現在説法(阿弥陀経無量寿経では極楽は安楽・国)

 

世俗の君子降臨し 勅して浄土のゆえをとう

十方仏国浄土なり なにによりてか西にある

鸞師(曇鸞和尚)こたえてのたまわく わが身は智慧あさくして

いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず

 親鸞聖人作高僧和讃曇鸞和尚

 

 

智慧浅きどころではないわたしは太陽の沈む「西方」に浄土をいただく。

我が家からは阿弥陀山・宝立山方面、すなわち山々に日が沈む。

同じ珠洲なのに、外浦へ行くと海の反対方向に日が沈む

―どうしても方向感覚がうまく育たない。

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曽々木海岸窓岩。岩の窓は義経の放った矢によってだとか、この海岸、岩は岩倉観音・白山神の寄り浜、依り代だとか多くの伝説がある。

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真浦・逢坂から。28日17時17分。

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同。この先の岬は危険なので回ることは出来ない。その先端に続くのが千畳敷

 

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『歳月能登』御園直太郎写真集1993年刊。千畳敷の落日―この写真を用いたポスターが1962年国際観光ポスターコンクールで最優秀賞を受賞した。

参考 真浦道~逢坂

『歴史の道調査報告書 第4集 能登街道Ⅱ』石川県教育委員会 平成9

 

年刊 西山執筆

 浜道は、上道に登る地点より、さらに二八〇m先で国道と分かれ右に入る。
 一四〇m先の山腹に海月庵があり、地滑り時に当地に残った数戸の内の一軒と伝承し、寛文一〇年(一六七〇)の村御印や安政二年(一八五五)の真浦村飛脚札を所
蔵、天保七年(「八三六)には宝田敬が『能州日暦』を著すおりに泊まった南家、御塩蔵跡地、真浦の草分けで明治六年に退転した天正期扶持百姓の刀祢家など
が軒を並べていた。
 能登十七作物名薬師の一つである浜上薬師も刀祢家上の台地にあったと推測される。
 浜道は、現在逢坂燧道口で国道と交わるが、昭和三〇年に現隧道より七〇mツバ崎寄りの旧隧道が完成するまでは峠道をたどった。
 峠へは、井上商店横を右に折れてすぐ左折し、若子祭りを伝える真浦白山神社の東下を通って神社後方の道に出、さらに一四〇m西の地点から峠越えをした。
 上道もジョウノコシへ向かう道を左に折れ、神社西上から同じところに出た。
 浜からは四二〇m奥になる。
 この一㎞程の峠道は、近世の紀行文には必ず難所と記され、いつからか逢坂と表記するようになったが、元々這ってしか進めないところから這坂の字が当てられて
いた。
 紀行文には朴坂・宝坂とも記されている。
 特に仁江側が急坂で、人々は「仁江の這坂」といって恐れていた。
 途中に三昧跡があり、急坂を下って国道と交わる地点に六地蔵石像が安置されている。